2006年01月31日

ジムの若造

夕方ジムに行くと、いつもかなり混んでいる。単に混んでいるだけなら気にしないが、学校帰りの中学生だか高校生だか(日本人は両方とも若く見えて、区別がつかない)が、たむろす様に集まって、大変なにぎやかさである。

たいがいは、マットや幅広の梯子のように横に棒が渡してある用具(名前はなんと言うのだろう)の前に座って、ダラダラと学校のことや女のことを話している。五月蝿(うるさ)いだけではなく、他の利用者にジャマなこと、この上ない。

昔の青くさかった頃の自分自身を見るようなのでイヤだということもあるかもしれないが、しかし、わがままな子ども、他人のことを考えず想像力を使おうとしない若者は、大っ嫌いである。

今日は、特に、十何人かがやかましく大変な迷惑であった。しかし、ここは日本である。ジムの担当者が注意することなどは、絶対ありえない。こういう担当というのは、監視のためでなく、せいぜいがタダ利用を見つけるくらいが関の山である。それもいかにもなーなー的で気に入らない。

その無策さぶりも手伝って、ジムでストレスを発散しに行ったにもかかわらず、ずっとモヤモヤがおさまらなかった――。

ボカッ

「あ、なにすんだよぅー」
(かまわず、そう言った若造を)ボカッ

「おい、オッサン、なにすんだよおぅぅ」
「五月蝿い!」ボカッ
「いてぇ、いてぇよー」
「そんなところにたむろして、みんなが迷惑してるのが、分らんのか」ボカッ
「どこにすわろうと、かってジャねぇーかぁーよー。あんたのジムじゃあ、ねーだーろぅ」
「公共道徳もないのか、おまえは」ボカッ
「なんだよぅ、こーきょー洞くつ、ってー」
「日本語も知らんのか。天に代わって…」ボカッ
ボカッボカッボカッボカッボカッ

――いえ、できません、そんなこと。それは、私の白昼夢であった。そんなことしたら、彼らに変なオジサンと言われるだけでなく、土地の札付きになってしまう……。理性あることをしても、歳をとっているだけで変人(たしかに変わってるが)といわれかねない国なのである。
posted by ろじ at 22:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本・社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月29日

理性的な人間という意味

 ネット上の荒らし行為などを見ても感じるのだが――ここ日本に住んでいても、アメリカでほどではないが、いわゆる“まったく話が通じない”ブッ飛び野郎がいたりして戦々恐々とすることがある。それが高じて「誰を信じたらいいか」、と感じてしまうこともあるのだが、むしろ、できれば人間の「どんな部分」を信じるか、と考えたい。

 哲学では、人間を「理性的な存在」などと定義することがある。この「理性」と呼ばれるもの、かなりウサン臭い。

 だいたいは(哲学の伝統では)、純粋に感覚的・知覚的な能力ではなく、冷静で論理的な思考によってものごとを理解・解明して把握・判断する能力、またそれに基づいて行為する能力をいうとされる。

 しかし、完全に理性的な人がいるという哲学者がいたら、その人は何も世間のことをご存じない(あるいは知りたいと思わない)幸せ者か、なんの苦労もしたことのないボンボンであろう。オレは、酒をガブガブ飲みながら(確固たる事実に基づかずに)ゴシップを楽しんだりする学者(哲学者)が「理性」などと口にしていたら、信じないことにしている。

 完全に理性的な人を見つける可能性は、蜜柑の木になる金色の実を見つける可能性より低いかもしれない。生物的な衝動さえも持つ人間に、そんな人はいないだろう。しかし、せめて、ほとんどのひとが“理性的な部分”は持つと考えた方が、正しいと思う。人の考え方のどのくらいの割合かは、その人がどんな経験をし、どのような知識や主義を持っているかによるだろうが。

 もちろん、こんなのは、甘い、世間知らずだといわれるだろうな。しかし、たとえば、ある人と会話や協議をしようとして、それが(だいたいは)うまくいくはずだ、少なくとも話は通じるはずだ、と(普通は無意識に近いレベルで)信じているのなら、その人が持つ「理性的な部分」を前提にしている。ことばの論理的な理解は、理性がなければ成り立たないのだから。

 おそらくは(望むらくは)ほとんどの人が持っている、人間のそんな部分にアピールしたい。おそらく、教育や啓蒙の可能性もそこにあるのではないかと思う。
posted by ろじ at 21:36| Comment(0) | TrackBack(0) | ひと言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月28日

フォント

Phrase1.jpg
posted by ろじ at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | ひと言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月26日

動ゆえに可能

眼球は常に動いていて、そのために、外界のものが輪郭をもって見えるという。

――動いているからこそ、不動のものが見える。
posted by ろじ at 23:48| Comment(0) | TrackBack(0) | ひと言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月24日

ライブドア事件で“堕ちたもの”

ライブドアの事件で、問題の首謀者、つまり会社の幹部がテレビに映されることが多いが、どの幹部を見ても「若いな」という感が強い。もちろん37,8の若年なのだから若いのは当たり前かもしれないが、その話し方というか雰囲気がとても若く見える。

若年の風雲児といえば聞こえが良いが、どうも、一度もつまづきを経験したこともなくその道をタダひたすら突っ走ってきたという“若々しい(青々しい?)”オーラが出ている。

驚くのは、こういう若い層がIT産業や株の世界に増え始めたということでなく(いつの時代だって参入組みは若いのだ)、若年の風雲児に勝手し放題に牛耳られるほど、株のマーケットの世界の規則がしっかりしていなかったことの方である。

以前のフジテレビやTBSの株の問題の時にも感じたが、日本の株のマーケットは、「社会の暗黙の了解」というのに頼りすぎてるんではないかねえ。マーケットは、オープンマーケットなのに。どうも、そこに、閉じられた(と信じ込んでいる)「村社会」の図柄が見えてしょうがない。

今回の事件は、やや奇異だ。フランスの新聞リベラシオン紙は「日本の大企業の経営者や政治家は、ヤクザのような者の不正行為には目をつぶっても、堀江氏の米国風で礼を欠いた日和見主義は拒絶した」と批判的であるし、日本の一部の歪みだけを摘発した感があるのは、否めない。

それにしても、昨日の堀江容疑者逮捕の報道は、どこもイタダケなかった。他に映すものがないとはいえ、容疑者の乗った車をひたすら追っかける図柄は、かなりお粗末であった。堀江社長らを乗せたワゴン車が警察車両に先導されて出て行った(東京拘置所に到着した)というだけでなく、それを道々追っかけて映したからって、ニュースバリューがどれほど高まるのか。第一、公道を迷惑な話である(こういう方法は、昔から変わってないけど)。

そして、一夜明けての、テレビ週刊誌を含めたメディアのホリエモン叩き。これら同じメディアは、つい先ごろまで彼らをヒーロー扱いし、番組に出た彼を神様扱いしてたではないか。

きわめつけは、ある男性誌の「堕ちた、中身のない“ピーマン”ホリエモン」などという新聞広告である。この雑誌は先ごろまで、「君もホリエモンになれるか」などという趣旨で記事を書きまくっていたのである。

こういう事件があるたびに感じるが、地に堕ちるのは、その書かれている対象だけではない。
posted by ろじ at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本・社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月23日

偽装問題:民間確認検査機関の怪

さて、あの耐震強度偽装問題、ライブドアの事件の陰に隠れてしまい、小嶋社長もほくそえんでいるだろうか。

この問題、業界と政治家との癒着関係も含めて、いろいろ論じられているが、真空スポットのように話題にされていない点がある。

それは、3日前にも書いた民間の指定確認検査機関がちゃんと仕事をしたのか、いや、しているのかどうか、しておらず問題を見て見ぬ振りしていたとしたら、それはなぜなのかの問題である。

しばらく前、一ヶ月以上前に、民主党の長妻昭氏が、国土交通省のOB4人が民間の指定確認検査機関に天下りしていることを明らかにした。2001年以降に国交省の前身の建設省元住宅整備課長ら退職者4人が、49の民間検査機関のうち2機関に再就職し、さらに、偽装を見落とした指定確認検査機関「イーホームズ」についても、確認検査員29人のうち24人が地方自治体のOBだという。

その後、この癒着関係は、マスメディアではまったく問題視もされていないようだ。しかし、これが事実だとすると、事件発覚後、すぐ国が支援策を打ち出し(「耐震強度偽装マンションと一般の欠陥マンションの支援の違い」という、かなり無理がある議論をしながら)たのも理解できる。
参照:http://www.asahi.com/special/051118/window/051207c.html

また、自民党の武部勤幹事長が11月26日という早い時期に、北海道釧路市での講演で、「悪者探しに終始すると、マンション業界つぶれますよ、ばたばたと。不動産業界もまいってきますよ。景気がこれでおかしくなるほどの大きな問題です」などと口を滑らせたのも、なるほどと頷首できるのである。
参照:http://www.nikkei.co.jp/news/seiji/20051127AT1E2600L26112005.html

国交省OBが検査機関に天下り、民主・長妻氏が明かす
 民主党の長妻昭「次の内閣」国土交通担当は4日のフジテレビの番組で、マンションなどの耐震強度偽装問題に関連し、国土交通省のOB4人が民間の指定確認検査機関に天下りしていることを明らかにした。

 その上で、「国交省による民間検査機関の検査が非常に甘い。国にも責任はある」と述べた。

 天下りは、長妻氏の資料請求に対する同省の文書回答で判明した。それによると、2001年以降に同省の前身の建設省元住宅整備課長ら退職者4人が、49の民間検査機関のうち2機関に再就職していた。

 さらに長妻氏は番組の中で、偽装を見落とした指定確認検査機関「イーホームズ」についても、「確認検査員29人のうち24人が地方自治体のOBだ」と指摘した。
(2005年12月4日20時38分 読売新聞)
posted by ろじ at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本・社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月21日

街のかおり

パリの空気には、なにか特別なものがある。その空気は、この自由でぜいたくな街でしかほとんど知ることのないある種の気楽さを伝えている。いくばくかのあいだ、この空気を吸うやいなや、知らず知らずのうちにこの土地の習慣を身につけてしまう――あまりにも他とかけ離れたものなので、おもわず従順に従ってしまう習慣を。(フランソワ・ド・バキュラール・ダルノーFrançois de Baculard D'Arnaud『かわいい女(ひと)(La Jolie Femme)』)
それぞれの町(街)は、人間にたとえられる。独特なクセや香りがある。

古くて格式の高い雰囲気を今でも残すボストン(一部を除いて)は、さしずめ、ヨーロッパの教養高い「淑女」……。神戸はちょっと老いた旅芸人?ドイツのドレスデンは、まちがいなく、人見知りで遠慮がちだが物知りの中年美女。

ニューヨークは、一人の人間にたとえるには、ちと大きすぎる。華やかさが第一のタイムズ・スクエアあたりは好奇心とバイタリティーのあふれた21,2の女子大生か。華やかさの中にも落ち着きと高貴さを求める5番街あたりは、35歳くらいのご婦人?しかし、ヴィレッジあたりは、新進気鋭の間違いを恐れないアーティスト?でも、ニューヨークの中でも古いくて人種の多様性の活気にあふれるクイーンズは?いまや新開発街となったハーレム地区は?ニューヨークは家族のようなものか。

そんなことを考えながら新宿を歩いていた。この街には、なぜか情緒がない。香りがない……。
posted by ろじ at 23:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本・社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月20日

客をなめた殿様銀行

オレのように、銀行口座を給料振込みと公共料金の引落としだけに使っている客を、銀行では「ゴミ」と呼んでいるのだそうです。

オレが口座を持っている銀行は最近U○Jと合併した○菱銀行。名前が、また不可思議なものに変わりましたが、まあそれはいいますまい。ただ、もとの銀行によって、同じ「○菱東京U○J銀行」でも、○菱系の店舗とU○J系の店舗とがあるのです。

さて、今日の朝、あるところのATMに並びました。ATMの外には、4人ほど人が待っています。みな急いでいる様で、たえず中を伺っています。中には女性が2人。しかし、なかなか出て来ません。

ガラス越しによく見ると、そこで機械の前に立つくだんの女性は、金をおろした後も何かしている様子。やがて機械の上に置いたカバンのチャックを開け、中から小さなパースを。そして、そこからブラシらしきものが――。

あのなぁ……。非常に急いでいましたので、こういうお姫サマにかまってる暇も叱りつけている暇もありません。しかたなく、大通りを挟んだ反対側の「○菱東京U○J銀行」へ。そこには、以前はそんな○菱系の銀行はなかったのですから、それはU○J銀行が変わったものに違いありません。まあ、系統が違っても、まさか昼間に手数料は取られますまい――。

しかし、ATMにキャッシュカードを入れ暗証番号を押しても、何度やっても「もう一度番号確認してください」のエラーメッセージです。「○菱東京U○J銀行」では○菱銀行のカードが無料で使えるはずだと、ATMのわきには説明書が付いています。

業を煮やして、がらんとした行内に突っ立っていた係員に、ことの次第を話して、○菱銀行のカードは使えないのか訊くと、係員は
「○菱さんですか?ええーっと……」
と言いながら、マニュアルのようなものを出して調べ始めました。○菱銀行は、つい先ごろ自分の銀行と合併した銀行です。なにを調べるんでしょうか――。

U○J銀行のこの無能な係員は、あげくに、「道の反対側にATMがありますので」と言います。この銀行にいる限り、一生、金はおろせないと確信し、道の反対側、つまり最初に入ろうとしたところに引き返し、金をおろしました。

今回の合併は、コトゴトクこんな感じであるように思う(突然、怒りの「である調」)。以前、○菱銀行に金をおろしに行ったら、IC付きのカードに切り替えろと勧誘がうるさかった。ちょうど、カード詐欺が横行した頃であった。

しかたなく話を聞いてみると、これが、まるでお話にならなかった。制限だらけなのである。IC付きのカードでは、コンビニで金がおろせない。合併して○菱東京U○J銀行になった後は、U○J系の店舗ではおろせない……、その他いくつかの制限。つまり、時期尚早、無理やりIC付きカードを発行しようとして、システムが整っていないのに、強行しようとしているのが見え見えなのだ。

しかも、あいかわらず手数料は、バカ高く、ヘタをすると週末はたいへんな額の手数料が取られる。なぜそんな高い手数料を取るのかと訊けば、きまって「規則ですから」と答える。こっちは、なぜそんな規則があるのかが知りたいのだ。

客をなめているのだ。都銀の給料は、この不景気中でもかなり良いとのことである。フザケタ護送船団方式のせいである。

うううー、怒りがおさまらん。
posted by ろじ at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本・社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月18日

耐震偽装の構造

小嶋社長の喚問で、その手のひらを返したようなダンマリぶりと政治家との繋がりばかりが、問題になっているが、これはもともと耐震強度偽装の問題だった。

さらに問題を正確に言うと、耐震強度を偽装することを可能にした業界の構造も問題になっているはずだ。それがスッポリ抜け落ちてしまった。(ついでにいえば、施工での偽装は、あいかわらず社会問題にされず、いまやこの国の文化的伝統になってしまった。)

建築主(この場合、ヒューザー)―※(発注)→ 設計者(建設会社)
                                |
                              (下請け)
                                ↓
                            設計事務所や建築士
                            (たとえば、姉歯氏)

設計者(建設会社)は意匠設計・設備設計・構造設計などを、下請けの手を借りておこなう。※の発注の結果、でてきた設計に仮に問題があっても、チェックする方法が2つある。まず、設計図を「建築確認」し、さらに、「建設工事中の確認」がされることになっている。

建築確認」は、(建築主事のいる)自治体と民間の検査機関(たとえば、イーホームズ)でなされる。民間の検査制度は平成11年度から行われた。民間の検査機関数は、平成12年の27社から平成17年には122社と4倍以上になっている。これほど多くなると、サービス競争が激しくなり問題がおきてくる。たとえば、検査に本来20日かかるところを2週間ほどでしてしまうという。(11月25日、NHK『あすを読む』「耐震強度偽装の構図」)

建設工事中の確認」では、設計どおりに工事が行われているかどうかが、自治体か民間検査機関による中間検査、また、ある規模以上の場合は一級建築士による工事監理(監督管理のこと、しかし、なんでこんな言葉を使うのかね)で確認される。

民間が入るようになったのは、かつて建築確認や完了検査が自治体だけで行われていた頃には、あまりに件数が多くて手が回らなかったからである。平成10年に年100万件もあった検査は、自治体の建築主事わずか1700人で行われていた。その時の検査完了率は38%で十分な検査さえできなかったが、翌年からの民間導入後、平成16年には、73%となった(NHK「耐震強度偽装の構図」)。民間の力の導入は、どうしても必要だったのである。

民間を必要とする構造。これに加えて、現在のように、民間の検査結果を国や自治体が再チェックもせず、実質的に検査を民間に「丸投げ」の状態が続けば、かりに民間が偽装をしてもそれはかなりの割合で野放しになることになる。

これは「検査の構造」の問題であり、さしあたり、ヒューザー社がどの政治家と癒着していたかとは独立の問題だろう。それが、まるで議論されていないように思う。
(いわば建築士のプロと市民による http://homepage2.nifty.com/kekkanzenkokunet/ のような動きが出ているのは救いではあるが。)
posted by ろじ at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本・社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月17日

証人喚問

昨日、ある食堂でトイレに入ったら、スポーツ新聞が落ちていて、開いていた紙面に「小嶋社長の証人喚問を、わざわざ、宮崎勤被告の最高裁判決の日とぶつけた」と指摘する記事があった。

なるほど、この証人喚問の日程には、与党の自民党の意図が透けて見える。あれほど小嶋社長の証人喚問を嫌がっていた自民党である。

しかし、それを指摘する大新聞は、朝日も含めてないようだ。

しかも、昨夜から今朝にかけて、ライブドアの強制捜査さわぎだ。この背後にも、政治的意図が・・・?

街で買い物に入った店で、店主が小型テレビで証人喚問中継を観ていた。「どうですか」と訊くと、店主は、
「突然、ノラリクラリですよ」と言った。
「あれほど、イキが良かったのに、どうしたんですかねえ」。
「ほんとに」と、呆れたように答えた。

一般の人たちは、ごまかされず、この問題に関心を持ち続けてくれることを願う。
posted by ろじ at 23:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本・政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月16日

冬のスポーツシーズン終わる

ボストンのスポーツチームのファンとして、この冬は、踏んだり蹴ったりだった感が強い。

まず、大リーグ野球、レッドソックスの一番バッター、ジョニー・デーモンがチームを去ってしまった。レッドソックスはそれなりの条件を出して契約しようとしていたが、それを蹴ったのだ。そこまではいい。あいつも、結局は、金が欲しかったのか、けっ、ジョニー、おまえには失望したゼ――それですむ話だ。

と、と、ところがだ、レッドソックスを去って新しく入団したチームが、ニューヨーク・ヤンキースである。よりによって、この世の最大のライバルチームである。

ジョニーよ、おまえがレッドソックスにいる間に言ってたヤンキース揶揄(やゆ)の言葉は、なんだったんだ?あれは、たんなる口だけだったのか?怒りでしばらく何もできなかった。

そして、今日の、アメリカン・フットボールNFLのニューイングランド・ペイトリオッツのプレーオフ敗退である。

史上初のNFL3連覇をかけていたが、まあ勝てるだろうと思われていたデンバー・負乱子巣に負けてしまった。名監督ベリチェックがいても、5つのターンオーバーを喫しては、勝てはしない。アメリカン・コンフェレンスの強敵ライバル。インディアナ・コルツがまさかの敗退だったので、これに勝てばチャンピオンシップ(スーパーボール)進出の可能性が高かったのに。

しかし、今シーズンは、ペイトリオッツは主力にケガ人が続出の中、よくプレーオフに出た。そこは、やはり名将ベリチェックである。――とはいえ、やはり、このダブルパンチは、効いたのであった。
posted by ろじ at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月15日

「黒」の思想性

近代洋画家を代表する須田国太郎の大回顧展として、東京国立近代美術館で彼の展覧会がおこなわれている。それにちなんで、昨日のNHK『新日曜美術館』で、彼の特集をしていた。

須田国太郎は、和と洋の絵画を統一したといわれる。

須田は、留学した先のスペインで、その「黒」の魅力にとりつかれた。日本に帰国後、絵筆をとり「黒」を描き始めるが、認められなかった。しかし、彼は頑固に「黒」を描き続けた。番組は、その苦労の跡をたどっていた。

須田が認められなかったのは、日本の(湿潤な)風土にその「黒」が合わなかったからと言われる。それもあるだろうが、それにもまして、スペインで「黒」が持っていた思想性のようなものが、日本にはなく、理解されなかったからだと思う。

当然のことながら、須田がその「黒の思想性」を日本の伝統的な水墨画と能の幽玄の中に見出した時、須田の絵画は受け入れられ、その絵画は和洋の一つの完成を見たのだった。

しかし、須田が認められなかったのは、彼の責任というより、日本に「黒」という色に思想を見る精神性が欠けていたことのほうが大きかったと思う。
posted by ろじ at 23:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 芸術・音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月14日

ウツボ

夢の中だと思った。目の前に、ウツボのような蛇がいた。口が大きく裂けている。

それが、「夢」という名前がついていることは知っている。あるいは、「悪」なのかもしれない。

噛み付こうとするウツボの首元をつかむ。もう一方の手で、大きく裂けた口をつかめばそれで万全だが、さてそれからどうするか……。

巨大なジップロックのようなものに入れ、それから大きな缶のようなものに入れればいいのだろう、とあたりを見るが、何もない。いや、缶なんかじゃ、出てきてしまうかもしれない。首元をつかまれたウツボは、体を大きくくねらせて逃れようとしている――。

やがて、手ごろな大きな缶を見つけた。そこに入れたが、今度は、そのフタが開かないよう押さえつけていなければならない。そこで、今度は、その缶を入れる大きな箱はないだろうかと、あたりを探し出した。

ああ、あれかと思った瞬間、また、箱のフタをどうするかと、不安になる……。
posted by ろじ at 16:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 日々のなにげない記録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月13日

おきまりの結末

最近ついてないことが多いが、さらにこんなことがあった。

小銭を稼ぐために、ある英会話学校で教えているのだが、先日、銀行でその給料が振り込まれていないことを発見した。

さっそく学校に電話し、出てきた教師のAに、調べてくれるよう頼んでおいた。

連絡がないので、今日、あらためて電話すると、電話に出た別の教師Bは、そんな話は聞いていないという。AとBは共同経営者である。

それどころか、驚いたことに、BはAが去ってしまったという。
「He is gone.(行っちまったんだ)」
「What do you mean by 'He is gone'? Where?(行っちまったって、どういうことだい?どこに?)」
「Hong Kong, or somewhere...(香港かどっかさ)」

どうやら金を持ち逃げしたようだ。Aは、以前から、小さなことだが経営上いろいろ問題を引き起こしていたのだ。
あまりの絵に描いたようなお決まりの結末に、怒りを飛び越して、なんだかおかしくなり笑いがこみ上げてしまった。

ある人が、厄を祓ってもらったらどうかと言った。祈るだけで、1万も2万も払うのは納得いかないので、断った。
posted by ろじ at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日々のなにげない記録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月11日

ノン・フェミコードの伝統

寝正月のあいだ、斉藤美奈子氏の『物は言いよう』をパラパラ読んでいた。あいかわらず歯に衣着せぬ痛快な語り口が、小気味よい。

帯の副題は「思わぬセクハラを防ぐ60の心得」。そう、これは、日本社会に根強い「セクハラ」の風潮を指摘した本なのである。

そのキーワードはフェミ・コード(Femi Code)。略してFC。これは、言動がセクハラや性差別にならないかどうかを検討するための基準、と定義されている。別に社会的な倫理基準になってはいないが(セクハラが社会的倫理基準に取り込まれていないのは、いや、過剰な形で「倫理」の装いをまとい始めたのは、日本の悲劇だが)、「ドレス・コード」があるシチューエーションにふさわしい衣類に関するルールであるごとく、社会的に共有されるべきルールのことである。

「ドレス・コード」はどこかに書かれているわけではない。しかし、高級レストランにランニングにサンダル履きで行けばやんわりと入店を断られるごとく、自分の服は自分で決めるとばかり、お見合いに水着で行けば社会的ルールを知らないと“イエローカード”をもらうごとく、また、ひと様の葬式にパジャマを着て行けば「アウト!」と追い出されるごとく、それは社会の、あるいは社交上の、重要なルールである。

それと同じく、社会に生きるわれわれはセクハラや性差別について「コード」を持つべきだという、しごくまっとうな発想に、このFCは基づいている。

多くの日本社会の“つわもの達”の言動(失言・暴言・妄言・放言)が、まな板の上に載せられている。まず、20年ほど前(1984年)の、三浦朱門氏の
女性を強姦するのは、紳士として恥ずべきことだが、女性を強姦する体力がないのは、男として恥ずべきことである
という、ランニング雑誌『シティランナー』誌上での発言がある。驚くのは、三浦氏が小説家という文化人であり、そしてなによりも、当時の文化庁長官であったことだ。どういう「文化」やねん。

しかし、この発言が出た当時、悲しいことだがそれが別にこの日本社会で突出した発言ではない、と思った記憶がある。事実、その後似たような発言が、“文化人”のあいだで繰り返されてきた。ご本人はユーモアのつもりでおっしゃるこうした発言が、FCにひっかっかることは言うまでもない。これこそ、日本の文化人の系譜なのかもしれない。NFCの伝統。KFCではない。アメリカンフットボールNFLのナショナル・フットボール・コンフェレンスでもない、National Film Centerの略でもない。ノンFC、すなわちFCを否定する文化。

他人のアイデアを自分流に引用なさるのがお好きな石原都知事も、このFCの伝統に属するようで、その有名な「ババァ発言」が取り上げられている。引用された当の東大教授様のインタビュー記事を読んだことがあるが、かなり曲解されたようですな。ということは、石原都知事の御発言は、引用されたアイデアに触発されたのではなく、あらかじめ言いたいことが御自分の中にあったということになりましょう。

以前から思っているのだが、これだけ西洋化が進んだ日本、こういう点では決して西洋化しないのは、不思議でならない。
posted by ろじ at 23:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本・社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月08日

新年の酔っぱらい

Dog1.bmp  ちゃんとご挨拶するのを忘れていましたね。

 新年、あけましておめでとうございます。今年も、どうぞよろしくお願いします。

 お年賀に、スコッチウィスキーのシーバス・リーガル Chivas Regalをいただいて、1ヶ月断酒の誓い、たった8日でふっとびました。
 固い意志を持つこと、を抱負にすればよかった。







posted by ろじ at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日々のなにげない記録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月04日

泣きたがるニッポン人――「壁」好きの日本人?

テレビ番組をいろいろのぞいていて、気が付いたことがもう一つある。泣かせる番組が多いということ。

前に書いたように若い芸人を使った番組でも、困難を乗り越え、苦しみを分かち合い・・・と、とりとめもない罰ゲーム風やらせも含めて、泣かせるためのセッティングと語りが目白押しだった。そういった「お話」をスタジオでビデオで観て、感動し泣いているタレントが大写しにされる。

ひねくれ者のオレは、「一億総感動」「一億総涙」か・・・。なんじゃい、こりゃ?と思って観ていた。

そのことに関連して、昨日3日の朝日新聞に、実にタイムリーなコラムが載っていた。『鑑賞していますか』というシリーズコラムで、第1回は「泣きたがるニッポン人」。映画を初めとして、ヒットするものを見てみると、日本人が泣きたがっているのが分るというのだ。

たしかに、『世界の中で愛を叫ぶ』『いま、会いにゆきます』『私の頭の中の消しゴム』など、どれもこれも泣かせ映画のヒットが続いた。しかも、おもしろいのは、昔の「感動巨編」と違って、
最近の特徴は、病気などを「壁」にした純愛物語が、典型的な感動生産装置となっていることだ
という。病気だけではなく、年齢や容貌など劣位にある方が、不利な条件という「壁」を乗り越えて告白する(たとえば『電車男』)、そのプロセスが好まれるという。そこには、泣くことがポジティブなこととして受け入れられつつあるという背景もあるという。ある学生たちは、共同研究で、
男女とも映画で涙を見せることにより。自分の弱さを見せつけ聖性を高めようする、互いに弱さ・純粋さを共に有しコミュニケーションを図っている
と推測する。泣くことが、ある種の純粋さを示すことになり、泣く自分に感動する自分もストーリーの一部になっているのかもしれない。

正月に限らず、告白系ドラマは多いようだ。「告白」も大事なツールとなり、感動ストーリーの必須アイテムのようだが、
最近の若者たちは、異性と交際を始めるにも「告白」という儀式を必要としているという。デートを重ねるうちに、自然に交際に至るのではなく、あえて「契約」に合意しなくてはならなくなったというのだ。
そこには、人間関係に臆病で、自分で傷つきたくない若者たちがいるのだろう

しかし、それと簡単に感動することとは、また別のことである。なぜ、これほどに簡単に感動するのだろう?それについて、このエッセーは、ある研究者の興味深い指摘をひいている。
感動は、感情が未知の領域に達し、閾値を越えてこそ起きる
ということは、「未知のこと」が多くて簡単に閾値を越えてしまうと、簡単に感動するということになる。感動しやすいのは、日本人が、この世界での経験が少なくなったということを意味するのかもなあ。

posted by ろじ at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本・社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月03日

正月難民と 日本のテレビ世界

正月3日目。
唯一開いていたマーケットを発見し、弁当を買おうと入る。弁当売り場で、残り一つとなっていたのを買おうと前に進んだ瞬間――、ホームレス風の男が手を伸ばし、わが昼飯の希望を奪い去ってしまった。

昼飯をホームレスに奪われたオレは、街をさまよい歩き、駅前あたりの開いている中華屋でも探すが、なかなかない。30分探してもないので、仕方なく、しょぼいラーメン屋に入る。その後帰宅。家の近くで、開いている中華屋を発見……。
ああぁ、正月昼飯難民。

ごろ寝してテレビを見ているが、驚くほど、どれも似たりよったりである。そもそも出演者が、どの番組も、若いタレントだか漫才師(漫才はやらないが?)だか芸人(芸があるのか?)のようなのばかりだ。しかも、まるで金太郎飴のように、ついさっき別の番組で出ていたのと同じ芸人が、似たようなことをしている。

大晦日の深夜、テレビ朝日の「朝まで生テレビ」の討論会を見ていたが、何人かの政治家と知識人が、イラク戦争について、イラクと(アルカイダの)テロリストの関係をいまだに強調しているのには、驚いた。

イラク侵攻に当たってブッシュ政府がその根拠としていた、イラクとアルカイダの関係がなかったというのは、もう2年も前からアメリカのメディアと知識人の間では、常識になっている。

根拠がダメになるたびに、ブッシュ大統領は別の論理を出したが、ブッシュ政府が主張していたイラクの「大量殺人兵器」でさえ、2年以上前から、やはりないだろうと指摘され、戦争の正当性が疑問視されていた。それは、このブログにも何回か書いた。
http://dokugo.seesaa.net/article/1812382.html(2003年06月11日 Current Middle East)
http://dokugo.seesaa.net/article/1812412.html(2003年07月10日 証拠がなかった戦争)
http://dokugo.seesaa.net/article/1812417.html(2003年07月13日 危機管理)

日本の知識人って、そんなものなのかねぇ。

正月テレビ番組にも飽きたので、DVD屋さんでERを借りてきた。第10シーズンのエピソード1と2。ある医師が国境なき医師団(?)の一員として行ったアフリカ、コンゴで土地のギャング(?)に捕虜となる。捕虜たちが、ひとりひとり殺されていくなか、それまで神も信じていなかった医師は、ひざまづいて神に祈っていた……。命があることの重みと、それを支える周りのシビアな現実――。テレビ観てると、ほんとに、日本は囲われた世界だと思うよ。
posted by ろじ at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本・社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月02日

世界の「見えない壁」

昨日の新聞(朝刊)に、もう一つ興味ある記事があった。スロベニアの哲学者、ズラヴォイ・ジジェク氏のインタビュー記事だ。

いま、世界各地に「見えない壁」ができている。日本でも超金持ちとそうでない人の「壁」が、暗に語られることがあるが、世界的にも、社会階層の壁・民族の壁・ある種の権利を持つ者と持たない者との壁が生まれつつある。

それは、資本主義にもとづいて経済が発展すれば世界はいずれ一つになるという、経済中心主義者の(ナイーブな)理想に、いわばビンタを食らわせるような衝撃的な出来事だったと思う。このインタビューは、そこのところを、うまく説明してくれている。

ベルリンの壁崩壊後、90年代は、フランシス・フクヤマ氏が定式化した「歴史の終わり」という資本主義の理想が世界を覆った。経済が発展すれば我々はいずれ一体化する、という理想だ。9・11事件はその幻想の終わりを告げ、世界は東西冷戦時よりもさらに深い分断にさらされていることを示した。
第一には、テロリストに対して安全を保障する壁ができた。壁で高級住宅地を囲む米国の「ゲーテッドコミュニティー」がその典型だ。第二は、グローバル化の時代に流入する移民を制限するための壁ができた。アフリカからの移民を防ぐスペインのフェンスが代表的といえる。グローバル化は商品の自由な行き来をもたらすが、人の行き来は緊張をもたらすため、強い管理を求める声が高まる。
社会にはグローバル化に適応できた人とできなかった人を区分する壁ができる。例えば、中産階級の上位にいるヤッピーは流行の日本食を楽しむが、普通の人々はファーストフードを食べる。ライフスタイルがまったく違う。
人々は一定の人にしか入場を許さない閉鎖的な空間で、同じような人としか会わないようになる。
(昨秋パリでの若者の暴動について)社会の中の不可視の存在が、可視化を求めた抗議であり、社会的な理想主義を掲げた68年の学生運動とは対照的だ。

最後から2番目の引用については、インターネットがまさに当てはまるのではないか。インターネットは誰でもアクセスできるようでいて、ますます仲良しクラブ的なヴァーチャル空間になり、“見えない壁”を作りつつあるように思う。
posted by ろじ at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 国際・社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月01日

おし寄せるカワイイ文化

明けましておめでとうございます。新たな歳を迎えるにあたって、皆さんの昨年は、どんな歳だったでしょうか。

オレのは、あまりエキサイティングではありませんでしたが、沖縄に行き、そこで、沖縄の戦争中の筆舌に尽くしがたい苦労について、生の証言や解説を伺えたのが、ハイライトだったでしょうか。当然ながら、日本の戦後をあらためて考えるきっかけになりました。

さて、本日1月1日の朝刊(朝日新聞)に、「再生・新生」というシリーズのコラムが載っていて、日本の「カワイイ」文化について書いてあります。

ハローキティーなどに代表される、ごぞんじの「カワイイ」文化ですが、それが世界を席巻し始めているというのですな。アメリカでも、“ポップの女王”グウェン・ステファニーが、「スーパー・キュート・イン・ジャパ・ニーズ」などと歌ってるそうなんですな。ああ、アメリカよ、おまえもか……。

車メーカー日産も、この路線を推し進めているらしい。
「草食動物のようなかわいさは日本車が切り込める唯一の武器だ」

「草食動物のようなかわいさ」とはよく言ったものだけど、そうかなあ、それが「唯一の武器」かなぁ。おじさんが、古すぎるのかねぇ。

一億総カワイイ」「一億総オタク」になってしまいましたか、日本は……。

カルロス・ゴーン社長に引き抜かれ、日産のデザイン改革を担う中村史郎常務は、上の発言の後で、「欧米が造り上げた速くて強い肉食動物の車文化」に対抗するため、「カワイイ車」の研究を進めているという――。


そんな車、ぜったいヤダ

そんな車が走る街に、いたくもないです!
そんな街、ハラスメントですよ。硬派ハラスメント!オレが何したというんだぁ〜。ハァ、ハァ…。

ここにも住めないかねえ……。新年早々、寝覚めが悪いぜ……。
posted by ろじ at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日々のなにげない記録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。