2006年06月27日

「批判しない」日本のメディア

日本がブラジルに負け、1次リーグを敗退したその翌日(24日)の朝日新聞朝刊の第一面に、日本代表に関する中小路徹氏の署名コラムが載った。

ポイントは、ジーコの方法論――戦術の大枠だけを示し、あとは選手個人に自分の能力を最大限に出すことを求めたやり方は、時期尚早だった、というものだ。ただし、「方向性は間違っていなかった。日本はこれまで個人能力の劣勢を、組織力を研ぎ澄ませることでカバーしようとしてきたが、それは、現実的な策ではあったが、個人能力の不足と正面から向き合わない、逃げでもあった。つまり、戦うのは選手なのだというジーコのメッセージに、チーム全体が応えなかった」という保留つきであるが。

それはいい。問題は次だ。そのコラムの中に、「決定力が課題なのに、練習でシュートを外して笑っているFW」というくだりがある。

ブラジルに惨敗して、こういう指摘が多く出ているようだ。しかし、なぜこの国では、こういう「批判」はいつもうまく行かなかった後で出てくるのであろうか。「シュートを外して笑っている」のが、「リラックスしてやっている」と評しえないものなのなら、それはいつやっても困ることだろう。なぜ、練習観戦レポートの中に書かんのか?

「試合前に意思消沈させてはいけない」などと考えているのだろうか。そもそもこの国のメディアは、負けや引き分けても激しい批判はしない(先日の柳沢のプレーについての記事を参照)。勝ったら、なおさらそんなことは考えられない。

ドイツやイタリアのサッカーメディアは違うようだ。両国とも、選手のパフォーマンスを厳しく査定する。ドイツのメディアが容赦ないのは有名である。たとえば、ドイツのDFヤンセンは、開幕直前に日本と引き分けた試合のプレーを批判され「あなたは日本に2点取られた。もうW杯での出番はないだろう」と言われた。

イタリアでは、引き分けに終わった18日のアメリカ戦の後、自国選手に対する厳しい評価が下った。2-0で勝った22日のチェコ戦でも、一部の選手は厳しく非難された。ちゃんとしたプレーができないなら、試合のための真剣な準備ができないのなら、それはダメだと言う――それが、成熟したスポーツ文化というものだ。

なんでも持ち上げるこの国のスポーツメディア、それは、自国のチームが大事な試合に負けても、会場でにこやかに記念撮影する日本サポーターの姿と重なる、と言っては言いすぎだろうか。

しかし、「地に堕ちるまでは非難しない」裏を返せば「地に堕ちたら非難しまくる」この文化、考えてみれば、あらゆる事に通じているようだ。政治でも、政治生命が傾くとそれまでの“失点”が、選挙で敗れると選挙戦中の“失態”が、尾ひれをつけて書かれる。事件を起こしたものがその翌日から袋叩きにあうのは、この国の週刊誌のお決まりのノルマである。

これは、強いもの長いものには巻かれる、という(村社会的な?)精神風土の裏返しなのだろう。権力や“選ばれし者”を批判できないメディアは、「御用メディア」とまでは言わないが、本当の事実を伝えないと言われても仕方ないだろうと思う。そんなメディアに踊らされる人々もまた……。
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2006年06月26日

主審が試合台無しに――ポルトガル対オランダ戦

 屈指の好カード、26日早朝のポルトガル対オランダ戦で、大会の不安がそのまま現われた。

 この試合の主審、イワノフ(Valentin IVANOV)氏は、先日のフランス対スイス戦について、この独語で「問題だ」と書いた主審である。こう書いた。「カードで仕切る審判と言うのは、あんまり統率能力がないんではないかと思う。「切り札」でしかコントロールできないってのは、ジャッジの深みのなさだと思う」と。
http://dokugo.seesaa.net/article/19333006.html

 そのすぐカードを出す姿勢も、ファールの不統一な基準も気に入らなかったが、その審判が、また、カードを乱発して試合をぶち壊しにしたのだ。

 ちなみに、FIFAのワールドカップHPには、各監督と選手のコメントが引用されているが、主審を批判したところだけカットされている。どうもふところが狭い。
史上最多4人退場 オランダ監督「主審が試合台無しに」
 サッカーW杯ドイツ大会決勝トーナメント1回戦のポルトガル―オランダは、W杯史上初めて退場者4人を出す荒れた試合となった。イエローカード16枚も、02年日韓大会のドイツ―カメルーン戦と並ぶタイ記録だ。
 前半のロスタイム、ポルトガルのコスティーニャが2枚目のイエローカードで退場となったのが皮切りだった。激しいファウルの応酬、度々、両チームがもみ合いになった。ロシアの主審のコントロールが利かなくなり、イエローカードが積み重なった。
 後半18分にオランダのブラールーズ、33分にポルトガルのデコ、ロスタイムにオランダのファンブロンクホルストと、次々にグラウンドを去っていった。
 敗れたオランダのファンバステン監督は「主審が試合を台無しにした。後半に行われていたのはサッカーではなかった」と語った。
 国際サッカー連盟(FIFA)のブラッター会長は「主審は基準が同じでなかった。主審にこそイエローカードが出されるべきだ」と不快感を示した。
 これで今大会(52試合)の退場者は23人となり、98年フランス大会の22人をすでに超え、「W杯新記録」となった。
http://www2.asahi.com/wcup2006/news/TKY200606260199.html
「主審がイエロー」、退場者続出にFIFA会長苦言
 W杯1試合最多となる4人の退場者に加え、16枚のイエローカードが乱れ飛んだ25日のポルトガル−オランダ戦について、国際サッカー連盟(FIFA)のブラッター会長は「きょうの主審は選手によって基準が同じでなかった。主審の方がイエローカードかもしれない」と、乱戦を招いたロシア人のイワノフ主審を批判した。
 8強の座を懸けた激しい争いは再三の警告などで中断し、後半のロスタイムはなんと6分もあった。「試合が終わらないのではないかと感じた」とポルトガルのシマンはぐったりしていたが、ブラッター会長は「素晴らしい試合が中断したのは、首尾一貫しない主審と選手のフェアプレー精神の欠如が原因だ」と苦言を呈した。
http://www2.asahi.com/wcup2006/news/JJT200606260004.html
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2006年06月25日

オコチャマ文化のサッカー

NHKのサッカー中継(ニュース)の前に流れる音楽が気に入らない。

どこぞの男性グループが歌っているらしいのだが、その(決してうまくない)歌い方といい声といい、いかにも子ども子どもしい感じに、「熱気」や「情熱」よりも「幼稚さ」「未熟さ」ひいては「甘え」を感じてしまうのだ。

日本のスポーツ文化の“幼さ”と重なって、いらだつのかも知れない。日本選手のタレント扱いや、テレビ番組での「カワイイ少女」を登用したばかげた応援合戦や、試合でダメな選手を批判せずやたら持ち上げるスポーツメディアと重なって。

この歌、W杯の公式テーマソングかと思っていたら、NHKが勝手に選んだものだそうですね。W杯の開会式で聞いたテーマソングは、もっとオトナの感覚でしたよ。

そんなオコチャマ文化だから、日本のサッカーは世界レベルから30年遅れている、なんて言われんだと思うぜ。

最後に、ジーコが選手の自主性・自由をうながしたのに対し、前監督トルシエは常に規律で選手を枠にはめようとし自主性を殺した、という評にひと言。

トルシエは、期間中、いつも選手が子どもっぽいことを嘆いていた。「彼らはいつも部屋にこもってゲームをしている」と驚いていた。だからこそ、たとえば、ユース大会の決勝戦直前などに選手に現地の孤児院を訪問させたりしたのだと思う。「赤信号を無視して渡れるような選手に」と言ったのはトルシエである。

一部の報道によれば、このW杯中も、重要な試合直前にゲームに夢中の選手がいたという。日本代表になる選手は、永久に同じ選手ではなく、ほとんど二年ごとに新しく「日本社会の中の若者」というグループから選ばれてくる。その「日本社会」が子どもっぽければ、日本代表の監督は、毎回、同じ問題に直面することになる。ジーコの「プロ意識が足りない」という評は、そう解釈できる。
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2006年06月24日

日本対ブラジル戦

コンピューターのアンチ・ウィルスソフトを交換した関係で、しばらくネット落ちしていました。日付をさかのぼる形で、W杯で目に付いた、いや気になってしょうがなかったことを記していきます。

もちろん、まずは日本対ブラジル戦(23日)の感想です。

まず言っておかなくてはならないことは、今大会は、2002年のW杯とはすべてにおいて事情が違うということです。ヨーロッパのリーグで活躍する一流選手たちは、前回のW杯では、リーグ戦の連戦による疲労のため全力を出せなかった。前大会で一流選手の多い強豪がイマイチだったのは、そういう事情も背景にあります。

一流選手をかかえる強豪国は、W杯の元締め(FIFA)に文句を言って、今回のW杯直前に休養期間を作ってもらいました。そうして望んだ今回のW杯、強豪が勝ち進んだのは当然でもあります。(ただしフランスは苦戦してますが。それはまた、別の理由によるでしょう。)そうした中で、決勝ラウンドに進むのは、簡単ではないはずです……。

――と、まず、日本のおかれた状況に同情を示しておいて。「サムライ」なる日本チームが王国ブラジルに挑んだ問題の試合。日本がどのくらい“サムライらしい気合”を見せてくれるか……、しかもこの日はじめて巻をFWに使ったので、楽しみにしていたのですが。

前半。日本は守備で積極的にプレスをかけに行き、それが効いているように見えます。ブラジルは、守備でもプレスをかけず日本の出方を見る様子。中盤で中田がしゃにむにがんばっています。中盤にいる稲本は、ボールを持ってもすぐ捕られたりして、守備の甘さにはちょっと苛立ちます。ブラジルは、持ち前のクリエイティブな動きで、日本ゴール前に何度もチャンスを作りますが、川口が好セーブ。

日本の攻撃は、ときどき、加地が右サイドから良いドリブルで切り込んで行き、センタリングしますがコントロールはかなりアバウトです。しかし、この日初出場のFW巻がいるおかげで、右から中央での攻めは、前の試合に比べるとはるかにスピードがあります。右からの攻めは、それ一種類ぐらい。ただ、テクニックの差は歴然としていますが、今日の日本にはかなり気力が感じられます。

日本が望んでいた1点が入ったのが、左からの思い切りの良さと正確さをあわせ持ったサントスからだったのは、うなずけるところ。サントスがドリブルで左から切り込んで、ペナルティーエリアの外あたりに来たとき、ブラジルのDFの4人は、エリアラインあたりに並んでいました。そのライン上の右寄りには巻と玉田。ここで、玉田が良い動きに出ました。DFの間をぬって走り出し、DFのウラにぽっかり空いたスペースへ。

そこにサントスの絶妙のパス。それを受けた玉田が、キーパー前に持ち込んで思い切りよく左足を振り抜き、ゴール!しかし、この場面、ブラジルのDFの動き、ちょっと解せないものがありました。あまりにもゴール前のスペースを開けすぎて、ブラジルらしからぬ守備です。もしかしたら、かつてのセレッソの背番号10番ジーコへの敬意のため……?ともあれ、玉田のシュートには、それまで日本のFWがしなくてはいけなかったが、なぜか決してできなかった「思い切りの良さ」が表れていました。

1−0で逃げ切ろうとした前半終了間際、左サイドでロナウジーニョがボールを持ち、そこからのクロスボールを右サイドのファーのシシーニョがヘッドで折り返し、飛び込んだロナウドがヘディングでゴール。ロナウドにマンマークで付いていた中澤は、ボールを見ていてロナウドを見失っています。ロナウドを見られる手前にいた稲本も、マークに付いた選手の背後にいて突っ立っていました。その結果、ロナウドのいるあたりはポッカリ隙間ができてフリーにしてしまいました。

しかし、この場面、ロナウドがヘディングシュートする瞬間にゴールに向かって走ってきた坪井が、その前に守備に戻り遅れたことが大きな要因だと思います。しかも、シュートの瞬間、坪井はロナウドの動きと関係ないほうのゴール右に走っているし……。坪井は、後半にも、ゴール前で相手をフリーにすることが多かったようですし、3点目が取られたときも、カバーが遅れてましたね。

後半。ブラジルが、守備ではプレスをかけに来ます。そこに、ブラジルの勝つ意欲が伝わってきます。攻撃では、ゴールの両サイドを使ってできるだけ長いパスを回し、広く攻めてきます。日本は、プレスをかけるのか引いて守るのか、あいまいな様子がうかがえ、8メートルくらい引いて構えるだけです。さすが、ブラジル巧者、いや、このあたりに日本の経験不足が感じられます。

ブラジルは、そうやって構える日本の守備とキーパーの間がちょうど空くような位置でボールを回し始めました。やがて、後半7分くらいに、日本選手の足が止まり、守備が完全に崩壊。あとは見ての通りの、下を向いて戦う意欲をなくしたヒツジの大殺戮が……。

ジーコ監督は選手を入れ替えてカンフル剤を注入しようとしましたが、それもなんら功を奏さず、大敗です。守備が売り物だった日本が4点をとられる結果になりました。残り何分かで点を許し、FWが点を取ろうとする前にパスを出してしまう――、やはり、日本選手が何か大きなものを欠いているせいでしょう。それは、ジーコが言うような「体格の問題」とは別のものです。

しかし、日本が欠けたものをしっかりと見つめるためには、こんな荒療治が必要だったのかもしれません。
浮ついたテレビ・メディア、
馴れ合いで選手を持ち上げてばかりいるスポーツ紙メディア、
日本サッカー協会の噂される「悪」を絞り出さない日本社会のためにも……。
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2006年06月21日

クロアチア戦についてのコメント

 ジーコが、試合開始が続けて午後3時(日本時間午後10時)だったことを批判したという。
 豪州戦とクロアチア戦は、昨年12月の組み合わせ抽選後に、日本のテレビ局の要望もあり開始時間が変更された。ジーコ監督は「サッカーはビジネスになっており、選手が犠牲を払っている」と指摘した。
http://www2.asahi.com/wcup2006/news/TKY200606200140.html
「暑さがひどかった」なんて同情的なコメントしているテレビメディアは、どう思ってるんだろうか。

 さて、2日前に元日本代表監督の観戦コメントを引用したが、今日の朝日新聞(朝刊)に、トルシエ氏のクロアチア戦についてのコメントが載っていた。中田がプレーで存在感を示し、ピッチの上で本物のリーダーになっていた、と指摘している。さらに、試合後のコメントも落ち着きがあり、プレスに対して大人の対応をしていたと、中田が「人間としても成長したこと」を率直に認めている。

 中田は、フィジカルで他の日本選手中でも群を抜き、精神的にも他の選手をひっぱっていた。彼がマン・オヴ・ザ・マッチに選ばれたからだけでなく、外国の多くのメディアがほめたように、立派なプレーをしたと思う(マン・オヴ・ザ・マッチは川口だと思うけど)。かの元日本代表監督のおっしゃることは、まったく分らない。

 日本は、2002年のためにトルシエを監督にして現代サッカーに目覚めたけど、ということは、その前の98年の監督をしていた岡田氏は、やはり「現代サッカー」以前の理論家なのだろうか。たしかに、テレビ解説でも、氏の精神論はやたらイキがよいけれど……。

 W杯一般で気づいたこと。審判の(ファールの)笛が鳴りすぎ。先日のブラジル対豪州なんか典型的。後半2分の、ブラジル背番号5番と豪州4番がボールを競り合ったところなんて、ただお互いジャンプしてちょっとからまっただけだが、きわめてクリーンだったと見えた。なのに、ファールの笛。主審は、マーカス・メルク(Markus MERK)というドイツのひと。この試合で、オーストラリアは、なんと25のファールをもらった。ヒステリックな人みたい。
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2006年06月19日

自虐的なまでの苛立ちがそこにはある

 「ブラジル、日本戦では主力の休養も」なんてニュースも流れてますね。

 ここは、全部控え組みでやってもらって、記録的な7−0ぐらいで負けたら、
日本と日本政府も本気になり、
自国のテレビ放映のためにわざわざ一番暑い時間に試合をさせる日本業界も、真剣に勝敗のことを考えるようになり、
ちやほやタレント扱いし、花火ばかり打ち上げるメディアも目が覚めるかも……
なんて、自虐的なことを考える。でも、やっぱむりだろうな。

 昨日の、柳沢の「決定的瞬間」について。こんなワケの分らない説明記事も。そんなに複雑なことですか?こういうのが、「甘やかし」というんではないですか。
 柳沢は「シュートの意識とか、FWは強引でないといけないとか、僕とは考え方がちょっと違う部分がある」と話したことがある。シュートを打つだけがFWの仕事ではないという美学。(中略)柳沢は「得点は最初から狙ってる。最後まであきらめずに狙っていきたい」と話した。自己犠牲をいとわない柳沢のプレーは日本代表にとって必要な要素。しかし、ことシュートに限れば、まだ迷いがあるように見える。
http://www.mainichi-msn.co.jp/sports/soccer/news/20060619k0000e050036000c.html
その点、「日経」は、サッカーになると、いつも実にはっきりと論評しますね。経済新聞なのに不思議です。いや、経済新聞だからか。スポーツ新聞の方が馴れ合いだものね。
「インサイドで合わせていれば、違ったかもしれない」と、ほぞをかんでも後の祭り。前線から引いてMF陣のパスを受ける動きは一級品でも、ゴール前では決定的に何かが欠けた選手になる。http://sports.nikkei.co.jp/wc2006/news/jpn.cfm?i=2006061900511n2

 数日前に、「同じ試合でも評者によって感想がまるで異なる」と書いたが、その好例をひとつ。今日の朝日新聞・夕刊に、岡田武史氏の日本対クロアチア戦の感想が載っていた。曰く
「心配なのは中田英。持ち味は簡単に球を失わないフィジカルの強さだけど、この2試合、その良さが十分に発揮されていない。彼らしい存在感がなかった」
などとおっしゃっている。

 あの〜、この試合では、頻繁にデフェンスのところまで戻って球を奪っていたし、後半、クロアチアにカウンターくらってDFがすべて抜かれた場面では、ひとり中田英だけが、ミッドフィールドからクロアチア選手を追いかけてきて、危ないところをかろうじて救ったんではありませんでしたか?

 この岡田氏、解説で、どうも緻密なことをおっしゃる印象がない。ご存知のように、元日本代表監督である。新聞の解説では、ストイコビッチ氏のものが、表現が論理的でボキャブラリーも豊かで好きである。テレビで見るオーストラリアチーム監督のヒディングも、緻密な印象がする。
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2006年06月18日

ひいき目と左目

 柳沢という人はなに考えてるんですか? ご本人はいっしょうけんめいやってるのだろうけど、それでもなあ……。柳沢という人はなんなんですか?

 玉田は、なぜあんなクロスが渡りにくい状況でクロスを蹴るんですか?ぽっかり空いている正面に蹴りぬけるのが仕事でしょう。大黒もなあ。ジャージ引っ張られたって、決めろよなあ。

 もうこうなると、日本のゴールには、豪州戦のように、偶然しか願えないのですかね。そんなのサッカーですか?ともかく、巻を出せ。

 残り一試合、いっそのこと、ブラジルにめちゃめちゃにやられたほうが、日本のサッカー界の将来の発展につながるのではないかという気もするんですが。でも、ブラジルもそこまで一生懸命やってくれないかもなあ。ただ、監督はブラジルの「神様」ジーコですし……。なんてったって、ブラジルでは、サッカーは宗教だと聞いていますし……。

 負けた方が、性根をすえてやり直し、クラマー氏の薫陶による日本サッカー発芽、Jリーグ設立による日本サッカー民主化に続く第3の改革で、やっと世界レベルに追いつけるかも。

 とりあえず、「サムライ、サムライ」と、やたら古風な盛り上げ方をされている周囲は、いさぎよく坊主にしますか。金髪に染めてるんじゃぁないよ!

 と言うわけで、仕事が手につかずW杯を見てしまったのだが、話変わって、一昨日から、朝おきると、左目が目やにで閉じられてしまっている。その前から喉の調子も悪く、黄色い鼻水もでるので風邪だとは思うのだが、こんなのは初めてである。なにか大きな病気でないと良いのだが、と柄にもなくやや心配。
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2006年06月17日

日本チーム

サッカー日本、崖っぷちらしい。メディアは声援・応援キャンペーンである。

テレビでの異常な盛り上がりは今に始まったことではないが、どうして、ああも若い娘ばかりを使うのであろうか。たとえば、テレビの応援メッセージの後に、浴衣かなんか着た右も左も分らなそうなウラ若い娘が出てきて、肘を内に折り曲げながらこぶしを挙げて「がんばれ〜、ニッポ〜ン」などと言うのである。サッカーとは、渋い男の(少なくともW杯は)汗と涙の闘いではないのか。ちょっと軟弱すぎないか?

応援する若い男たちが、そういう好みだということなんだろうか。それは、「いかつい」「ワイルド」がウリのサッカーファンのワールドスタンダードから、かなり離れた独特なもののような気がするなあ。選手がタレント化してチヤホヤされていることを、皮肉ったキャンペーンだったりして――なことないか。

W杯日本チームを特集した番組も、まともに正視できないものが多い。子犬に日本チームのジャージを着せて“サッカー”をさせるなんてのもあり、こりゃむしろ、そのチームをオチョクルためのものではないのか、とさえ思うのだが、当の本人たちは真剣らしい(なのか?)。

このノリは、知るかぎりでは、メキシコの番組に似ている。メキシコのお笑い番組は、いわゆるヨシモトのノリなのだが、そういえば、時にコメンテーターの背後にビキニを着た女性たちをはべらせたりしているのも、メキシコの番組に酷似している。

いっそのこと、サッカーそのものもメキシコ並みになってくれるとありがたい。
posted by ろじ at 22:02| 東京 🌁| スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月16日

独自取材による実名報道

例の秋田県藤里町の男児殺害事件、容疑者が逮捕されるはるか以前から、あちこちの週刊誌に「犯人」と特定されかねない記事が載り、実家の前には非常な数の報道陣が張り込んだ。ネット上ではその様子が流れたという。

昨日の朝日新聞に、その「犯人視報道」についての論評記事が載っていた。

朝日の質問にたいして、“過激”週刊誌の一つ、週刊現代の編集部は「独自取材で、畠山容疑者が事件にかかわっている可能性が極めて高いと判断した」と答えている。

こりゃあ、かなりの発言だな。のちのち本当でないことが分っても、その段階で「可能性が極めて高い」と判断されれば、または、冤罪でも「独自取材で」かなり怪しいと思うならば、実名報道(「彩香さんの母」というのは、実質的に実名報道である)してもいいとゆうわけなんだろう。

日本のイエロージャーナリズムは(も)その程度、と言えばそれまでなのだが、こうしたことが放置されているだけでもかなり問題だと思うが。

それにしても、これほど毎週のようにスキャンダルを暴く週刊誌、週刊誌関係者(編集者とか)がそのネタになったというのは(嫌われものの『朝日』以外)ないと思うのだが、これは、おたがい不文律でもあるのだろうか。「他人のモラルを突き上げる○○週刊誌の編集長、大不倫」とか、いいネタになると思うのだが。
注:松本サリン事件の教訓として、新聞各社、放送界は人権を考える機関を作ったらしいが、それは、形だけだったようだ。喉もと過ぎれば暑さ忘れる。

人権に関して「すぐ忘れる」のは、日本のメディアの十八番、いや、「人権」という概念そのものが、日本にはないのかもしれない。「プライバシー」をたてに情報公開を拒む政策は、そのコインの裏だと思う。
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2006年06月15日

若い娘と日本の男

アメリカの大学からの有名な学者による講演会に行った。

講演は英語で行われたこともあってか、会場はひと言も聞き逃すまいと、静寂そのものであった。講演者の声だけが流れる厳粛な雰囲気である。

30分も過ぎた頃、入り口近くで、カンカンとみょうな音がした。オレは入り口近くに座っていたので、もろにその音が聞こえる。見れば、カメラを持った女性が歩き回る音である。

胸に名札をつけているので、主催者側の写真担当らしい。ワンピースでおめかししているが、足元を見ると、ミュールというのか華やかなサンダルを履いている。講堂の床は硬質の木製である。その音であった。

このような会に、なぜそんなサンダルを履いて来なければいけないのか、いや来たがるのか。それが許されると思うプロフェッショナルじゃないメンタリティーが、ちょっとなあ。華やかに着飾って、チヤホヤされたいのだろうか。

会が終わってからも、なぜかムカムカして後味が悪かった。その後味の悪さをよく考えてみたら、若い彼女がそういう不適当な格好で来たのは、あらかじめ周りが注意をしなかったためともいえるし、いや、つまるところ、かわいく小綺麗にしてればマズイことをしてもチヤホヤしてしまう男のエライさんのせいなのだろうと、思いいたった。

以上は、オレの偏見だろうが、それでも、彼女がオバカなのは、甘えているだけでなく、甘やかしている男が回りにあふれているからではなかろうかと思うのは、日本の“男性風土”をみればあながち外れていないのではないだろうか。若い女性をめぐる、こういういかにも日本的な風景は、女性を物あつかいして痴漢行為を繰り返す日本の男たちの風景と、背中合わせでではないかとも思ったりするのである。
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2006年06月14日

ワールドカップと審判

何気なく、ワールドカップを観ている。野球が大好きだが、スポーツとしてスピード・ワザ・創造性をすべて備えた「スポーツの芸術」と呼ぶべきは、サッカーなのではないかと思っている。

ただ、最近は、生気が失せて丸くなったためか(うそ)、選手の動きも気になるが、審判がどう試合をジャッジするかが気になる。どんなスポーツもそうだが、審判がちゃんと判定しない試合は、イライラさせられるし、選手も思い切りプレーできなくなる。それに、審判のやり方一つで、ずいぶんと試合が締まったりダレたりするように思われるのだ。ダメな審判は、試合をぶち壊すと思う。

その意味で、日本対オーストラリア戦は、かなりどうしようもない審判に見えた。ゴール前での駒野への反則を取らなかった(腹立たしい)からというだけでなく、最初から、なんか動きがトロイなあ、プレーを追ってないじゃねえか、あんな遠くからプレーが見えるんか、とその資質が疑わしく感じられた。こりゃダメじゃないかな、もう二度とFIFAに使ってもらえないだろな。

フランス対スイス戦の審判も、気に入らなかった。明らかな反則を見逃したり、そのコールが遅かったり、かと思うと詰まらないことですぐイエローカードだしたり(ジダンへのイエローって、ありゃなんだ?)。この審判、そもそもあんまり動いていないし……、と思ったら、ゴール前でのスイスの明らかな「ハンド」を見逃している。

カードで仕切る審判と言うのは、あんまり統率能力がないんではないかと思う。「切り札」でしかコントロールできないってのは、ジャッジの深みのなさだと思うね。

2002年日韓ワールドカップの時の、有名審判モレノ氏による“八百長汚名”をそそぐべく、FIFAは審判の質を上げるためがんばったと聞いているが、かなり難しいことなのだろうか。

さて、肝心の試合の方、あまりに遅くに放送するのでビデオに録画しておいて観たりするが、これだと、いいプレーがなんども観れるし、ダレタつまらないプレーばかりの試合は飛ばして見ることもできるから便利だ。だって、16試合もあるんですぜ、セレクトしなきゃあ。

フランス対スイス戦は、フランスになんか意欲というか強い意志が感じられず、ガッカリした。その後のブラジル戦も録画して楽しみにしていたが、翌日のハイライトで、ブラジルらしくもない試合だったということが判明して、観るのをやめた。ラッキー。いや、ラッキーなのか?あのロナウドはないだろ。むしろ、クロアチアの「サッカー魂」が感じられた。

しかしそれにしても、同じ試合で、なんでこれほどまでに、新聞に載る評論家やコメンテイターの意見や解釈が違うんだろうか。日本対オーストラリア戦は、その典型だと思う。
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2006年06月13日

ビール券とボン

お米券なるものをいただいた。まだあるんですね、お米券。
ありがたいことです。これで、しばらく白いゴハンが食べられます……。
うわさの金芽米と、交換しました。

ビール券なるものも、もらった。さっそく、ドイツビールに換えました。W杯やってるっちゅうのに、日本のビールなんか飲めますか!?
ああ、ウマい!久しぶりのビールは!!

そういえば、ドイツのボンのビールは「ボンシュ Bonnsch」という。個人的には、ケルンの「ケルシュ Kelsch」より旨いと思う。ケルシュを濾過していないものらしい。

ボンに、ブラウハウス(Brauhaus Bonnsch)という飲み屋があって、そこのボンシュ・ビールは、掌でちょうど握れるようにデコボコがついた形になっているグラスで出てくる。そこのウェイトレスは、肉料理の載った巨大な皿をいくつも両手でもって、客の脚で込み合う中をまたいで配膳する。

日本を応援にボンに行っている日本人の方、一度お試しを。いや、ビールの方ですが。
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2006年06月08日

ドミニカ移民訴訟と「愛国心」

50年代後半、日本政府の甘い言葉(ほとんど詐欺同然の)にさそわれて、日本から中米・ドミニカ共和国に249家族(1319人)が入植した。戦後、海外からの引き揚げ者などで急増した人口を減らすため、日本政府は中南米への移住を推進するため、一般から募集したのだった。

募集要項では、約18ヘクタールの肥沃(ひよく)な土地を無償で譲渡するとされたが、行ってみて分ったことは、実際の配分面積は狭く土地も耕作がほとんど不可能で、移住者にあったのは所有権でなく耕作権だけだった。移住者の生活は困窮し、61〜62年に約130家族が国費で集団帰国した。

昨日、残った日本人ら計170人が国に損害賠償を求めた訴訟が棄却された。判決では、重要な情報を「移住希望者に提供する義務に違反した」と、国を批判したが。

これらの人々は、国から誠意ある対応が無かったので、泣く泣く「我が祖国」を訴えたのだろう。

このことについて、今夜、TBS局の筑紫哲也氏が穿ったことを言っていた。実は、筑紫氏のことは、その姿勢がいろいろな理由で好きではなく、心に響くことも言わないので、ふだんはチャンネルを回してしまうのだが。

自民党は「愛国心」などというが、国のために身を犠牲にした人たちに敬意を表し、彼らを思いやる感情さえないようだ、そんな人たちに「愛」を語る権利があるだろうか、というのだ。

もっともだと思う。「愛国心」とは、自分の国に愛着を覚えるという意味だ。(ドラマでも描かれるように)その愛着を唯一の心の支えに過酷な異国での開拓生活を耐え抜いた人々に、政府はなんと言うのだろうか。それをちゃんと説明できなければ、政府の「愛国心」は、単なるご都合主義といわれても仕方ないだろうと思う。
ドミニカ移民訴訟、国の対応「違法」 賠償請求は棄却
2006年06月07日
 1950年代後半、政府の政策に応じて中米・ドミニカ共和国に渡った日本人ら計170人が「募集時の約束と異なる悪条件の土地を与えられ、困窮生活を余儀なくされた」として、国に計約32億円の損害賠償を求めた訴訟で、東京地裁は7日、請求を棄却する判決を言い渡した。金井康雄裁判長は「外相や農相、担当職員は、農業に適した土地かどうかを調査する義務や、移住希望者に情報を提供する義務に違反した」と述べ、当時の国の対応は違法だと指摘した。しかし、提訴時には入植から20年以上が過ぎ、賠償請求権が消滅していたと結論づけた。

 麻生外相は「引き続き移住者との対話を進めていく」とコメントするにとどまったが、政府は「事実上の敗訴」(外務省幹部)と受け止めている。原告側は控訴する方針を明らかにした。

 同国への移民政策の是非を問う初の司法判断で、国の責任が認められるかが注目されていた。

 判決はまず、「海外移住は、移住者や家族の人生に多大な影響を及ぼすもので、国は政策として企画、推進しようとする以上、農業に適した農地を備えた移住先を確保するよう配慮することが求められる」とした。

 そうした観点から、外務省や農水省の当時の担当職員は、現地の農業適性について調査を尽くさなかった▽ドミニカ共和国政府との間で、受け入れ条件についての細部の詰めを十分にしないまま検討を進めた――と述べ、国の調査義務違反を認めた。

 さらに「移住者は営農や土地取得について制約を課される立場にあり、移住の根幹にかかわる重要事項なのに、募集要項には具体的な記載が一切なかったり、不十分だったりした」と述べ、情報提供義務違反も認めた。外相、農相にも「同様に職務上の法的義務違反があった」と判断した。

 一方、「違法行為から20年が経過したら賠償請求権が消える」とする民法上の除斥期間の考え方を適用。入植した時点から20年以上がたっているとして、賠償請求は認めなかった。
http://www.asahi.com/national/update/0607/TKY200606070160.html
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2006年06月05日

和田氏の盗作疑惑・再論

イタリア人画家アルベルト・スギ氏の作品を盗作したという疑惑をかけられていた洋画家の和田義彦氏が、05年度の芸術選奨文部科学大臣賞(美術部門)を取り消された。
(朝日:和田氏の芸術選奨を取り消し 盗作疑惑で審査会
http://www.asahi.com/culture/update/0605/009.html

当のアルベルト・スギ氏のホームページには、今回の“盗作事件”に関する、スギ氏の見解が載せられている。いわば「盗作された作品コーナー」が作られ、俺の本当の作品を見てくれ、といわんばかりである。日本のメディアからの引用も載っている。
http://www.albertosughi.com/f_prima_pagina/2006_05_30.asp

http://www.artnet.com のスギ氏のページには、販売用作品が挙げられているが、その中に、盗作されたとされる作品をあげて「盗作の一品(A case of Plagiarism)」と題している。彼一流の皮肉であろうか。

さて、和田氏ご本人は、「私の作品は盗作ではない」と疑惑を否定したと報じられたり、また、他のメディアには、「社会通念上、盗作と言われても仕方ない」と、事実上盗作を認めたりしている。http://www.asahi.com/culture/update/0605/001.html
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20060605i301.htm
その一方で、和田氏は、疑惑発生後すぐにスギ氏にファックスを入れ詫びた、とも報じられている。この先生、どうもよく分からない。

これらの作品が今回の「審査会」で盗作と認定されようとされまいと、そもそも、和田氏の作品が、長い間、陽の目を見ていたことが理解できない。スギ氏についてネットで調べてみてすぐ分ったことだが、このおじいさん、かなりの大物である。

この芸術家、50年代初頭に現われ、いわゆる「実存主義的リアリズム(Existential Realism)」や「表現主義(Expressionism)の代表として先頭に立ってきたそうな。しかも、その独特なスタイルで、多くの批評家や学者の注目を集め、なんと60年代から、ローマ・クァドリエンナーレ(Rome Quadriennale)、ヴェニス・ビエンナーレ( Venice Biennale)といった超有名どころの美術展をはじめ、海外の美術展で展示されてきたんだそうだ。2002年には、「絵画に対するミケランジェロ賞(Michelangelo per la Pittura)」というすごい賞も受賞している。
(以上、http://www.artquotes.net/artists/sughi/artist-statement.htm
http://eurogallery.aic-club.com/New_Folder/new_page_1.htm
92年には、ローマのクァドリエンナーレ(La Quadriennale of Rome)の会長に選ばれている。スギ氏の作品が展示された美術展の中には、有名なプラハのナショナルギャラリーも入っている。

当然の疑問は、そんな現代美術界の大御所を、なぜ日本の批評家、文部省に彼の賞を推薦・アドバイスしたお方は、ご存知なかったんだろうか?いや、知識があったら、例えば、今回、非常に似ているとされる「Virgo laurentana」(95年)や「Notturno no. 1」(98年)を知らないわけはないだろうと思うのだ。

いつもムズカシイ高尚なことをおっしゃる「美術批評家」や「美術史家」だが、こりゃ、もう、その看板を下さざるを得ないような、大事件だと思うがなあ。

この「盗作疑惑」には、いくつかの背景があると思う。まず、和田氏は、スギ氏のアトリエに熱烈なファンを装って行き、写真を撮りまくり、それをもとに、「自分の作品」を制作したとされる。和田氏は、他の誰もそのような情報が手に入らないと思ったのだろうか。スギ氏のインターネットHPは、とっくの昔、97年から開設されている。それ以外でも、スギ氏の作品をネットで見ることは簡単だ。もし、和田氏がそういう可能性を知らなかったとしたら――いや、あんな大胆な“借用”をするなんて知らなかったとしか思えないが、としたら、和田氏は、完全に世界で何が起こっているのか判っていなかったことになろう。つまりは、古い時代に属する方だったのか。

さらに、和田氏の「借用」の習慣は――正確に言うと、“西洋”から借りてきて我が物とする習慣は、日本全体に見られるものかもしれない。というのも、人文学や哲学の分野では、西洋の書物から得たアイデアを、そのまま(つまり、引用という形ではなく)自分の主張として書き発表することが、つい先年まで、公然と行われていたのだ。とすれば、和田氏の芸術行為もその“古い伝統”に従ったにすぎないことになる。その意味でも、やはり古い時代に属する人だったのだろうか。

もう一点。今回の和田氏の盗作疑惑を、日本でもいろいろなブログが報じ、批判したりしているが、そこに、アルベルト・スギ氏が自身のHPサイトであげた「声明文(statement)」を、無断でコピーしているものが多いようだ。スギ氏のサイトの声明文の直後には、「この声明文を転載する場合は、アルベルト・スギ氏に許可を得ること」というただし書きが載っているのだが。こんなことも、上にいう日本の“古い伝統”の査証となるのかもしれない。
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2006年06月04日

「何がしたい」希薄な日本映画

朝日新聞の夕刊に、宮崎陽介氏によるカンヌ映画祭レポートが載っている。納得することが多いので、引用しよう。

このコラムにも以前書いたが、ふだんから日本の映画状況に満足していない。その感じている気持ちをよく表わしてくれていると思うのだ。
参照:「If we lived in a Paradise …(もしこの世がパラダイスだったら…)」
http://dokugo.seesaa.net/article/2195879.html

まず(上編)「『何がしたい』希薄な日本」から。
「日本映画がコンペに無かったのは良いことだ。最近は主張も個性も希薄だから、再出発するべきだ」(中略)イタリアのヴディネ映画祭のステファン・クレミン氏は言う。日本は新進監督が早々と世界3大映画祭を狙いたがる、とも指摘する。

00年のコンペの参加作品だった青山真治監督の「EUREKA」など、9本をカンヌに出品してきた仙頭武則プロデューサーは「カンヌだけが映画の評価を定めるのではない、と言うのは負け惜しみ。日本映画は危機的状況にある」と語る。


・・・続く
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2006年06月01日

本当の「危険」

 一昨日の、今の日本女性について、「効率性やコストパフォーマンスなどばかりを追求して、自己保身にあくせくする女性が多く」というひと言についての解説。

 じつは、こう思うのは、女性ばかりではない。男性もそうだ、いや、もっとヒドイんではないかと思う。特に若い方々が。

 自分は危険にさらされず、手を汚さないことが、その哲学のように見える。利益追求でも、楽しみや娯楽でも。テレビやネットは、自分が危険にさらされない娯楽のための、最高の方法だ。

 痛い目にあったり、額に汗したり、自分の立場や論理を追求したりするのは、ダサくて(死語か?)、トロくて、流行にそわない、と思っているのだろう。そんな重苦しいことを避けて、シュミレーションや疑似体験ばかりが流行る。その典型が、ディズニーランドや、行った気分の「異国情緒あふれる」レストランや場所なのだろう。安全を確保された世界で、安穏としていられるのだ。

 こうした人は、できれば「自分は危険にさらされず、手を汚さない」方が良いに決まってる、と言うのだろう。しかし、誰かほか人が(それは日本にいる別な階層の人々かもしれない、別の国の人々かもしれない)、自分たちの代わりに、本当の「危険」や「汗」にまみれていることに、気づかないのだろうか。自分たちの安全は、沖縄や別の所の人たちが「危険」を“肩代わりしてきた”からこそ、与えられていることに気づかないのだろうか。

 こういう暢気さは、見ていて耐え難いな。
posted by ろじ at 00:00| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本・社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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