2007年04月23日

サン・ルイ島散歩

サン・ルイ島フォアグラ屋.jpg  昨日の日曜は、投票日の街の様子を見るついでに、サン・ルイ島散歩へと繰り出したのだった。

 
メトロのサン・ポール駅で降りて、そこから南へサン・ルイ島まで歩く。日曜だが、町並みが綺麗なので人手は多い。店も、ほとんどが開いている。この島には、良いパン屋と肉屋、フォア・グラ屋がある(写真)。美味いアイスクリーム屋さんが沢山あるのでも知られている。

サン・ルイ島のオルガン弾き.jpg 
サン・ルイ島の真ん中には一本、目抜き通りが走っている。そこに、明らかな観光客に混じって、土地の人たちも日曜の午後の散策を楽しんでいるようだ。だんだん日が伸びてきた上に、夏時間になったので、夜はなかなか暗くならない。気持ちの良い“夕べ”が、たっぷりある。

ノートル・ダム寺院と桜1.jpg 
サン・ルイ島から、シテ島へ。シテ島のちょうどお尻あたり、ノートル・ダム寺院の裏側から入ることになる。ここはあまり観光客が入ってこないが、花が咲きみだれる花壇があり、土地の人たちの隠れた憩いの場的な存在のようだ。ちょうど桜が終わった頃であった。(写真は、わずかに残った桜からノートル・ダム寺院を望む。)
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2007年04月22日

大統領選・第一回目

大統領選第一回・投票風景1.jpg 外出して歩道を歩いていたら、少し先を、ミニスカートの若い女の子が自転車を止めて、スタスタと歩いていく。なにやら書類を確認しながら、近くの小学校の方へ。小学校には投票所がある。投票するのだ。見てて良い気分に。

 
ノートルダム辺りを歩いてみたが、ノートルダム裏の公園から、サンジェルマン・デュプレあたりにかけては、この良い天気に誘い出されたように、多くの人々が出ていた。食事に入った中華レストランでも、選挙のことを口角泡を飛ばして議論する若者たちがいた。こんな光景は、日本ではないだろう。

 
夜、開票速報。サルコジ30,9%、ロワイヤル25.4%。ちょっとホッとする。しかし、バイユーの18%に続いて、極右のル・ペン氏が11%も票を獲得した。この国民は、10人に1人は極右なのだと思う。

 
チャンネルはF1F2が大統領選関係の討論会。F3は、『大統領』というタイトルの映画(なんだ?)。ジャン・ギャバンが出ている。F3は、なんなのだろう。F1F2はサルコジ派で、F3は反サルコジの骨のあるチャンネルといわれているが、サルコジが勝った時のために、あえて報道番組を流さなかったのだろうか?あるいは、日本のお晦日の『赤穂浪士』、アメリカのクリスマス・イブの『素晴らしい世界』みたいに、毎回、大統領選の夜はこの映画を流すとか? 

 夜、同じ話を繰り返しやる
CNNに飽きてチャンネルを回していたら、Paris Premierというチャンネルで、なんと日本の相撲を放映している。な、なんだ? 
 「Sumo, KYUSHU BASHO  2006」だそうだ。フランス人のアナウンサーが「栃東」と発音できず、「トシアズーマ」なんて言っている。それはいいんですが、なんで、また?
 良く見ると、画面の左上に「さよなら、大統領」。今のシラクは大の相撲好き。アアなるほど、それで……最後に、シラクにサービスをというわけか。なかなかオツなことをする。
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2007年04月20日

腐ってるよなあ

日本のこの手の「協会」というのは……。
バスケット評議員会、流会の見通し

200704200316

http://www.asahi.com/sports/update/0420/TKY200704190404.html

3月の評議員会で06年度の補正予算案が否決された日本バスケットボール協会が22日に再度開催を予定していた評議員会が、流会になる見通しとなった。


 開催には評議員数77の3分の2以上の出席が必要だが、関係者によると、半数近くが欠席するという。反対派は昨年に日本で開催した男子世界選手権で約13億円の赤字を出した執行部の人事刷新などを求めている。


 執行部は19日までに評議員を新たに25人増やすことと、補正予算案に反対した4人を評議員として認めないことを決定。これに反対派が反発、欠席の意思を固めた模様だ。石川武専務理事は予定通り評議員会を開催する方針を示した。
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2007年04月19日

アメリカで銃はなくならない

 このような悲惨な事件があっても、銃はなくならないであろう。いや、アメリカ人は、無くすように努力しないだろう。

 
日本やアメリカの一部のメディアは、「こんなことになって銃は無くさねばいかん」と論じているようだが、ヨーロッパのメディアはもっと醒めている。事件直後の報道でも、EuroNewsでは、現地から報道者が「こんな事件があっても、アメリカ人は『じゃあ、自分を守るために自分で銃を持とう』と言い出すだけなのです。それが、アメリカ人のメンタリティーなのです」と、はっきりと述べていた。 


 そう、「自ら武装して守る」「やられたらやり返す」、それがアメリカ人のメンタリティーだと、アメリカにいた時につくづく感じた。


 朝日新聞にこんな記事が載っていた。過去に起こった「銃の事件」が載っているので、採録しよう。ちなみに、この記事は、朝日の「米乱射事件」というコーナーに再録されている。この事件に関する過去の記事が載せてあるのだが、肝心の「いつどこでどんな事件が起こったか」の報告記事がない。事実を知りたいと思ってもできない。前にも書いたが、日本の新聞、とくに朝日は、国際関係記事のこういうところはきわめて不徹底で、イライラする。
銃社会、続く学校襲撃 規制、依然進まず 米大学乱射
200704171347
http://www.asahi.com/special/070417/TKY200704170179.html 
学校を舞台にした銃撃事件が、米国では後を絶たない。99年4月にコロラド州コロンバイン高校で生徒2人が発砲、生徒12人と教師1人を射殺したあとに自殺した事件以降、影響を受けたとみられる事件が未遂を含めて相次いでいる。銃による事件を防ぐため、ニューヨークなどを中心に、違法な銃を締め出す動きが広まっているが、銃所有そのものは合衆国憲法で保障されているため、広範な銃規制には結びつかない。

学校での銃撃事件は連続して発生する傾向があり、昨年8月末から10月初旬にかけて5件の銃撃事件が米国とカナダで相次いだ。昨年4月のコロンバイン高校事件から丸7年の前後には、いずれも未遂に終わったが、銃などを用いた学校襲撃計画が少なくとも4州で発覚した。  

米国では年間、暴発などの事故や自殺を含めて約3万人が銃の犠牲になり、このうち約1万2000人は殺人事件による。93年には銃購入時に一定の審査期間をもうけることなどを決めたブレイディ法が導入され、翌年には殺傷力の強い銃器の販売を規制する法律が時限立法で成立した。しかし、10年後に失効した。

事件の多くが正規の手続きをへずに販売された銃によるため、こうした違法銃を締め出そうとニューヨークのブルームバーグ市長らが「違法銃に反対する市長連合」を昨年4月に組織した。15人の市長で発足した連合は1年で全国40以上の州の180人の市長に拡大している。

ブルームバーグ市長は、他州にある銃器販売店に潜入調査員を派遣、銃購入に必要な書類を持たない客にも銃を販売した6州の27店に対して販売システムを変えるよう求める訴えを起こしている。いくつかの店は販売員の不正をモニターするシステムを導入することで和解している。

しかし、米国では合衆国憲法修正2条によって「武器を持つ権利」が保障されており、同連合もその権利は認めた上で違法銃に焦点を当てるにとどまっている。首都ワシントンのあるコロンビア特別区とシカゴ市は住民の拳銃所持を禁止する措置を導入しているが、これが憲法違反であるとの訴えがコロンビア特別区に対して起こされ、3月に連邦高裁が憲法違反にあたるとの判断を示した。  


【米国の学校で起きた主な銃撃事件】(ロイター通信などによる)
66年8月 テキサス大学    16人死亡、31人負傷
98年3月 アーカンソー州の中学 生徒4人、教師1人死亡
99年4月 コロンバイン高校(コロラド)生徒12人、教師1人死亡、容疑者2人自殺
02年1月 アパラチアン法科大学院(バージニア) 3人死亡
05年3月 レッドレイク高校(ミネソタ)生徒5人、教師1人、警備員1人死亡、容疑の高校生自殺
06年9月 高校(コロラド)    生徒1人死亡    
   9月 高校(ウィスコンシン) 校長死亡
  
  10月 アーミッシュの学校(ペンシルベニア)6〜14歳の5人の女子生徒死亡、5人負傷。
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2007年04月18日

CNNの報道

 バージニア工科大学の事件について、アメリカの報道チャネルCNNを観ていて、いかに「メディアに都合のいい犯人像」というのができて行くかを、垣間見た気がした。

 
犯人が韓国人であることが判った後、韓国での反応を放映していた。韓国の親類、また韓国国民の反応などを現地から報道したのだ。その映像の下に
  「殺人者の故郷(Home of the Killer)」
とクッキリと表示されていた。いくらなんでも、それはないだろう。これまで、イギリスやカナダから来た国民が犯罪を犯したときにも、「Home of the ○○」とやってきたのだろうか。仮にそうだとしても、なんという無神経さだろう。

 
しばらく後、大学の寮で犯人のルームメイトだったという学生二人への、CNNのインタビューがあった。どんな「人間像」か明らかにする、という意図なのだろう。しかし、観ていると、ルームメイトのいうことに対してCNNのインタビューアーが、
  「じゃあ、かなり社交性がなくて変わっていたんですね」とか
  「それは、○○ということなのだね」
と、インタビュー側が結論づけ・評価づけをしていた。 

 「○○である」という方向へ誘導していることになるのである。こういうのは「フィーディング」と呼んで、インタビューされる方の印象操作をしていることになり、犯罪捜査や裁判では問題になるはずだ。しかも、相手は、ボキャブラリーも少ない(しかも、人間観察に自信があるわけでもない)学生である。うまいラベリングを示されれば、それに飛びつくだろう。

 
「社交性に欠け、他人とコミュニケーションができず、勝手な脳内世界を作り上げる凶悪犯人」はこうして出来上がっていくのだ、と思わせられた。

 
このようにCNNの報道を批判する動機として、自分が犯人と同じアジア人だということ、自分も彼と同じようにアメリカでたびたび差別を受け鬱積した気持ちを募らせたということが、(無意識のうちにも)作用しているかもしれないことはまったく否定できない。(自分ではそうではないと信じるが、そんなことは、神にしか判らない。)にもかかわらず、この報道は、不公正で醜いと思うのである。
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2007年04月17日

バージニア工科大学、乱射事件

 昨日の深夜、テレビでCNNを観ていたら、アメリカ、バージニア工科大学での銃乱射事件のニュースが飛び込んできた。誰かが撮った、大学キャンパス内で乱射が行われて人々が逃げまどう瞬間のビデオを、繰り返し放映している。 

 しばらく観ていると、やがて、「アメリカ犯罪史上最悪」「最多の犠牲者」という文字が、画面下に踊るようなった。たしかに、悲惨で腹立たしく悲しい事件だ。しかし、正直言って、アメリカでこの手の事件が起きても驚かなかった。このように、
  
銃を簡単に手に入れる 
  
→どこでも(空港や厳重な規制のある建物以外は)簡単に持ち込める
  
→銃による殺人

が、アメリカで起こってしまう異常さを、すでに、たとえばマイケル・ムーアは映画『ボーリング・フォー・コロンバイン』で警告していたではないか。


 それを、銃規制反対論者は、いつも「殺すのは人であって、銃ではない」などとワケのわからぬ論理で反論してきた。

 
そんなの当たり前だ。銃を道端に置いておいて、そのままで殺人や事件が起こるわけがない!!いや、狩猟だって成立しない。それを用いる「人間」、つまり銃やライフルの引き金を引く誰かがいることは、銃のような「道具」では前提である。道具の銃と前提の(それを用いる)人間とを切り離すことは、ナンセンスだ。しかも、同じ「道具」でも、銃と、たとえば物差しでは、ワケが違う、つまり殺傷能力が違う。そのような銃と人間がセットであるとして、その前提たる人間に問題がある時に銃がどのような「道具」になるかどのような危険をはらんだ「武器」になるか、それを議論しなければならないだろう。

 
アメリカは、そういう議論をあえて拒んでいるとしか思えない。全米ライフル協会のロビー活動や資金援助があろうとも。乱射事件が起こるたびに議論は起こるが、とどのつまりは購入の部分規制(購入期間の制約)しかできないのはその証拠だろう。しかも、銃の事件のあまりの多さに、人々はますます鈍感になって行くように見える。あれほどアメリカ全土で泣き悲しんだコロンバイン事件を、今回のこの事件直前までどれほどの人が語っただろうか。アメリカ人は、短期メモリーしかなく、「9.11」「イラク戦争」で頭を一杯にしていた。

 
それよりも、一回目の乱射事件の後、なぜ大学の警察はキャンパス閉鎖を行わなかったのか、その方が謎である。それだけ、警察でさえも銃の事件に鈍感になってしまっている、ということなのだろうか。

 
犯人の「韓国人」にどのような事情があったのかについては、性急な結論を出さずに、十分な情報が出てくるのを見守ろうと思う。

 
しかし、まれに(と、反応の数からして言わざるをえない)良識あることを言える人もいるようだ(ただし、「こうした事件の後には」、ということになるのか)。以下は、ニューヨーク・タイムズ紙の記事への読者の書き込んだコメントから引用したもの。犯人が「韓国人」であることで、ある韓国人(下の「HP」なる人)が国を代表して謝罪したいと書き込んだことに対する返事である。翻訳せずに、申し訳ないが。

·           #290. (April 17th,  2007  --  4:43 pm )
This is in response to “HP” who is apologizing on behalf of SOUTH KOREA.
  Just as the United States is not responsible for the killings at Columbine High School (where the killers where WHITE males), the people of South Korea are not responsible for the actions of the lone killer at Virginia Tech.   I think it's ridiculous to hold an entire nation responsible for the action of this person.   If we're going to go down this route, then we should blame BRITAIN responsible for the actions of Eric Harris and Dylan Klebold because their last names are of British origin!
                    --- Posted by Karen
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2007年04月14日

パリ百花繚乱

5区植物園1.jpg パリはまさに春で、あちこちで花が咲き乱れている。しかも、街を歩いていても気づくのだが、その種類が実にさまざまなのだ。

 一週間前、花咲き匂う園を見ようと、5区にある植物園(名前はまさにそのまんま「植物園 Jardin des Plantes」)に行った。それまでは運が悪く「パリの桜」を見そこなっていたので、当てがあるというわけでもなかったが、内心期待していたのだ。

 天気は散歩日和である。たどり着いてみると、やはり巨大な「フランス風庭園」で、たいへんな人出だ。そして、園の片隅に、数は多くなかったが実に見事な八重桜と山桜に出会えた。
 

5区植物園2.jpg園はきちんと区画され、色とりどりのポピー、パラ、菖蒲、スイセン、モクレンやその他の花々が植えられている。この植物園は、1626年、ルイ13世の王立薬草園として開かれた。なので、もちろん薬草園も付いている。18世紀に『博物誌』を書いたビュフォンが園長になって以来、敷地を拡充しながら自然科学の研究施設として充実させていった。1792年には、園の西の端に、「国立自然史博物館(Museum National d'Histoire Naturelle)」を建てた。

 その北隣にある、1830年設立の2つの温室は、鉄とガラス建築で当時では珍しいものだったという。有名なアンリ・ルソーの絵『蛇使いの女』(オルセー美術館所収)は、ここの熱帯植物を題材にしている。

 園内にいる人たちも春の光を浴びて嬉しそうにベンチに座ったり、ノンビリと花のかたわらで眺めたりしていて、実に幸せそうである。園の北側には小さな動物園がある。覗いてみると、さして珍しくもなさそうな動物が柵の中を歩いているだけだが、観ている子どもたちも実に幸せそうだ。動物園のすぐ外にはカフェがあり、近所から来たらしい人たちが、コーヒーをすすりながら本を読んだり、ノートになにやら書き込んでいる。近くを、小鳥やリスが跳ね回っている。けっして贅沢ではないが、実に優雅な休日の午後である。


パリ・モスケ 1.jpg 植物園のすぐ裏に、パリで最大の回教寺院(フランス語では「モスケ」と呼ぶ)がある。そこにはイスラムの雰囲気を満喫できる喫茶店がついていて、本場の美味いハッカ(ミント)茶やイスラム料理を出す。パイプも吸える。お菓子も旨い。モスケの前を通ると、ちょうど結婚パリ・モスケ3.jpg式が終わったところで、美しい白いショールをかぶった花嫁さんが、新郎とともに花で飾られた車に乗り込むところであった。花嫁さんは、写真を撮るこちらに笑顔を向けて、車の中へと消えていった。

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2007年04月12日

日本の床屋組合い事情(聞)

 こちらで働いていらっしゃる床屋さんに教えていただいたお話し。なにぶん事情が良く分っていないので、伝聞の記録に間違いがあるかもしれない。あらかじめ、それをお断りしておく。

 なんと、フランスと日本は理容師免許が共通なのだそうだ。車の免許もそのまま書き換え可能なので、二国間でなにか協定のようなものがあるのだろうか。もちろん、とは言っても、言葉やその他諸々の問題もあるので、日本の理髪師がパリですぐ開業できるわけではないそうだが。

 さて、日本では、理容師の組合いは、各県にいくつかあるのだそうだ。そこで、くだんの床屋さんは日本の組合いの会合に出たときに、組合いを統合することを提案したという。組合いには「理事会」なるものが付いているから、「組合いの統合」は「理事会の統合」を意味する。

 理事会を統合すれば、理事は元の数は要らなくなるので、理事を辞めるものは「理事の給料」なるものをもらえなくなる。床屋もせずに理事をやって生活している者は、食いはぐれる勘定だ。そこで、組合の統合に断固として反対するのだそうだ。

  困った人たちだが、この構図、日本の他の種類の組織・企業にも見られるのではないか。人を律するべき「長たる者」が既得権益にすがりつくのは、上(政治家)から下まで、日本の伝統かもしれない。
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2007年04月11日

選挙へ

 大統領選挙へ向けて、パリの街もメディアも盛り上がってきた。第1回目の投票は22日である。

大統領選挙第一回1.jpg 立候補者のポスターもあちこちに貼られている。ときにポスターが大変ハデに悪戯されているのは、フランスらしいといえば言えるかもしれない。その悪戯をされる候補者がパリの「区」によって違うので、ポスターを見れば、その地域でだいたいどの候補者が支持されているか分るのである。たとえば、サルコジは、西の郊外ヌイイに住んでいるので(かつて、そこの市長をしていた)その辺りは支持者が多いが、東に行くと反サルコジ派が増える。つまり、ポスターへの悪戯も甚だしくなるのである。

 昨年、若者たちの暴動が起こったクリシー・スー・ボワでは、今回の選挙で意志表示をしようと多くの若者が選挙登録した、という新聞記事が2月の初めに載っていた。そうだよ、暴動ではなく、選挙で打ち負かそうじゃないか。反サルコジなら、どんどん声を上げれば良い。暴動で死んだりしてはいけない。
 ただ、ここの反サルコジ票がすぐロワイヤルに結びつかないところが、社会党には辛いところかもしれないが。

A surge in voter registration blurs the electoral outlook in France

http://www.iht.com/articles/2007/02/09/news/france.php 

大統領選挙第一回2.jpg そういえば、先月だったか、ロワイヤル陣営がパリで地盤を固めるのに躍起になって、 社会党“決起集会”(党大会)をパリ近郊でやった。ちょうどその日、買い物で郊外に行ったら、妙な会場に迷い込んでしまった。警備がモノモノしいので、恐れをなして、入り口でこれは何か、と訊いたら、「社会党の党大会です。え?道に迷ったんですか? こちらはいつでもウエルカムなのに」と、にこやかに会場を指差しながら応え、親切に行き方を教えてくれた。

 何ごともイメージが大切だというわけなのだろうな、と思ったものだ。特に、社会党は、劣勢をどう巻き返すかの決め手に欠けることに敏感になっているのかもしれない。アンケートでは、あいかわらず、サルコジ優勢と出ている。

 女性が大統領に就けるほど、この国が成熟しているとはとうてい思えないが(女性をチヤホヤするということは、女性を同等の一人前には見ていないということでもあるだろう)、ロワイヤルにはとにかく第
2回選挙に進んで欲しい。

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2007年04月10日

谷あいの修道院の廃墟(下)

 見ると、この修道院の歴史を日本語で説明してある。日本からいらした、あるジャンセニスムの専門家の教授先生が、歴史を訳して書いて下さったのだそうだ。ありがたいことである。専門的で完璧と思われる訳で、しかもかなりの達筆であった――。

 ジャンセニスムは、イエズス会の教説が信徒の堕落を招いていると考えてイエズス会攻撃を行い、カトリックの改革を訴えていた。一方、この修道院での神学は、カトリック教会からは「背教の流布」であると見なされていた。17世紀中期から、ジャンセニスムはイエズス会とはっきりと対立して、1642年、ローマ教皇に異端宣告され、ついに、1708年には、ローマ教皇 ローマ教皇、クレメンス11世の令状によりポール・ロワイヤルの廃止が布告される。他方で、フランス国王ルイ14世は、政治的見地からジャンセニスムを弾圧し、その中心地となったポール・ロワイヤル修道院を1710年に閉鎖させた。ここにあった大きな修道院の建物は取り壊され、修道女たちは強制退去させられた。ジャンセニスムの修道女がここの敷地に眠っていたが、弾圧したルイ14世は、修道院の建物を取り壊すと同時に、命じて埋葬されていた修道女を墓から暴いたという。

Port Royal Champs4.jpg 歴史を頭に詰め込んだところで、敷地内を歩く。敷地は、当時のままかと思わせるような石塀に囲まれ、同じ石を組んで造った水路から澄んだ水が流れ出ている。敷地に残っているのは修道院教会の礎石だけで、その後ろに建っているのは、後世19世紀に建てられた小礼拝堂である(前回の大きな写真も参照)。この修道院には、数学・物理学者だったパスカルも住んだが、その胸像が小礼拝堂の傍らに立っている(小礼拝堂に向かって右側の像)。

Port Royal Champs3.jpg 上に書いたように、この修道院には詩人ラシーヌがいた。22歳時、シュルヴェーズ公のためマドレーヌ城の改築にたずさわった時、その城に住んだ。その住居と修道院との間を散策して詩想を練ったといわれているが、その散歩道が、「ラシーヌの径(みち)」として近くに残っている(前回の大きな写真で遺跡の手前に見えるのが、ラシーヌの墓)。

 小礼拝堂跡からさらに奥に入ると、「鳩小屋」と「風車小屋」がある。鳩小屋は、朽ち果ててはいるがガラス戸などが入っていて、後の時代になって使ったような形跡がある。左手の風車小屋に入ってみると、内側の壁にジャンセニスムの年表が張られていた。以前は、そこは博物館になっていて、ジャンセニスム関係の資料や建物の模型が展示されていたのだそうだ。

 鳩小屋から出て、左手を見ると頭の上に先ほど訪ねて来たポール・ロワイヤル国立博物館の裏側が見える。当たり前のことだが、二つの敷地は緩やかなスロープで繋がっていたのだ。そのスロープを、自転車を引いた若者たちが登っていく。いかにもノンビリとしている。かつてはここにも血生臭い争いがあったのだろうが、とてもそうとは思えないのどかさである。

 帰りぎわ、野原の運河(といっても今や池だが)を覗いてみると、水の中に、クレッソンがおびただしい数、生えていた。畔に踏み込んで、いくつか抜き取った。今晩のすばらしい前菜になるだろう。
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2007年04月09日

谷あいの修道院の廃墟(上)(改訂)

Port Royal Champs5.jpg 

 天気が良いので、急に、パリの南西、車で30分ほどのところにある、ポール・ロワイヤル・デ・シャン(Port-Royal des Champs、訳せば「野原のポール・ロワイヤル」)へとドライブすることにした。ここシュヴルーズの山の森の中からその下の谷あいにかけて、17世紀の神学思想運動ジャンセニスム(注1:参照)の中心地だった、ポール・ロワイヤル修道院の跡があるのだ。

注1:ジャンセニスムは、アウグスティヌスの思想に影響を受け、人間の原罪の重大さと恩寵の必要性を強調したキリスト教思想。17世紀以降、特にフランスの貴族階級の間で流行したが、カトリック教会によって異端的とされた。

 まず、南の麓の町シュヴルーズから、寂れた街道を行く。途中、瀟洒な田舎料理のレストランが、日曜にもかかわらず開いていたので、そこでお昼にする。この地方の田舎料理がどんなものか知らないが、鴨のコンフィは、素朴ながら心がこもっていてとても美味しかった。隣のテーブルで、店の子らしき女の子が、お昼を食べるお爺さんにお説教を受けていた。

Port Royal Champs1.jpg そこから丘の上へと向かい、工業地区を抜けると、広大な野原一面に菜の花畑が広がる。どこまでも続く菜の花である。栽培なのか自然なのか分らないが、ものすごい数である。あまりの絶景にウットリしていたら、道に迷ってしまった。

 迷って、小さな古寂れた町に迷い込んだ。道の突当たりに、「しあわせ館(やかた)(Maison de la Bonheur)」を示す矢印が立っている。一瞬、夢の中にしあわせ教会迷い込んだのかと思った。さらに入って行くと、「しあわせ教会(Eglise de la Bonheur)」が建っている。その前に小学校らしい建物もある。「しあわせ学校」というのだろうか。

 そこを出てしばらく麦畑の中を走ると、突当たりに美しい並木道がある。その左手に森が見え、そこに車が吸い込まれていく。入って行って聞くと、そこがポール・ロワイヤル国立博物館「ミュゼ・デ・グランジュドゥ・ポール・ロワイヤル(Musee des Granges de Port-Royal)」であった。

 この修道院は、パリ郊外に1204年に設立され、修道院長ジャクリーン・アルノー(Jacqueline Arnauld)による1609年の改革で「学校」として知られるところとなる。いわば「寺子屋」だ。このアルノー家は女子修道院ポール・ロワイヤル修道院のパトロン的存在となり、1625年、パリに新たなポール・ロワイヤル修道院が建てられると、この古い方はPort-Royal des Champsと呼ばれることになる。敷地には、「小さな学校(寺子屋)ポール・ロワイヤル修道院」(フランス語でLes Petites-Ecoles de Port-Royal)呼ばれる複数の学校が創設され、その教育水準の高さゆえに有名となってゆく。

 さらに、17世紀以降流行したジャンセニスム(注1:参照)の信奉者でありフランスへの紹介者でもあるジャン・デュヴェルジェ・ド・オランヌ(Jean Duvergier de Hauranne)(彼は、本名よりも「abbé de Saint-Cyran(サン・シラン修道院長)」という名前で知られるようになる)は、1634年、アルノー姉妹が暮らしていたポール・ロワイヤル修道院の精神的指導者となり、そこをジャンセニスムの拠点とした。当然のごとく、サン・シランが修道院の監督になると「寺子屋」は「神学部」としての色合いを濃くしていく……(注2:参照)。

注2:おまけ。この時、共に指導に携わったのが、神学者・哲学者・数学者・論理学者のアントワーヌ・アルノー(Antoine Arnauld)で、彼は修道士の教育のために、あの有名な「ポール・ロワイヤル文法」(1660年、ランスロと共著)、「ポール・ロワイヤル論理学」(1662年、ニコルと共著)を著している。

 その修道院の付属学校と納屋だったところが、いまは国立の博物館になり、修道院と修道女たちの生活、ジャンセニスム、ここで活動したパスカル、また、幼くして両親を亡くしてこの修道院に引き取られた有名詩人ラシーヌに関する資料が展示されている。ユーロだかそこらの入館料を取るという。

Port Royal Champs6.jpg 今回はここは目的地でないので、その南の谷あい、山をグルッと回り下ったところにある修道院跡地へと向かう。修道院跡地は、谷あいにポッカリ空いた深い緑の平地にあった。林の間の道を下っていくと、広い敷地いっぱいに十字型の運河が広がり、その向こうに、小礼拝堂が見える。

 朽ち果てた教会しかないようなところだが、入場料を3.5ユーロ取る。上のミュゼ・デ・グランジュと合わせて5ユーロの割引だ。
  「ここの修道院だけをちょっと見たいのだ」
というと、受付の婆さんは、ここはあまり何もない、上のミュゼは観ないのか、と訊く。博物館を見る気力も時間もないから「いや、ここだけで良いのだ」と答えると、「じゃあ、入っていい」とタダで入れてくれる。入ろうとすると、
  「ちょっと待て」
と引き留められた。婆さん、机の下から古びれた黒いカバンを引っ張り出してきて、なにやらゴソゴソやっていると思ったら、一枚の紙切れを出した。

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2007年04月08日

パリの現実

朝日新聞の『天声人語』(8日付)に、こんなことが書いてある。
17枚の下書きで構図を固め、ピカソは真四角に近い大カンバスに向かった。1世紀前、1907年初夏のパリ。カーテンに絡んでポーズをとる5人の娼婦(しょうふ)は、後に「アビニョンの娘たち」(ニューヨーク近代美術館蔵)と呼ばれる。写実にこだわらない、絵画革命の記念碑だ。画家はスペインを出て3年、25歳だった。

 当時の、ベルエポック(麗しき時代)のパリは世界の若い才能を招き寄せ、いい仕事をさせた。イタリアのモディリアーニは21歳で来た。ロシアから移住したシャガールは23歳。「一歩ごとに、あらゆるところで、街そのものが私の先生だった」と語っている。モディリアーニの隣部屋にやってきたのは26歳の藤田嗣治だ。

 仏ポンピドー・センターが所蔵する、パリで活躍した外国人芸術家の作品が東京・六本木に集まった。「異邦人(エトランジェ)たちのパリ」展(国立新美術館、5月7日まで)だ。

 自作が出品された抽象画家、堂本尚郎さんは「絵が売れ、いつものテラスではなく値段の高い奥の席につくと、カフェの給仕が自分のことのように喜んでくれた」と話す。異邦人が身を寄せる場所が、パリにはたくさんあった。

 文化はしばしば、異質の出会いから生まれる。貧乏絵描き、路上の物売り、旅芸人、移民に異教徒。そうした部外者をつなぎとめ包容するのも、文化の苗床としての都市の力量だろう。

 物陰が追い払われ、すべて丸見えの息苦しい街に、明日のピカソは住みつかない。回顧展が開かれる街もいいが、できれば、それを開かせる街でありたい。
  いかにも“美しい主張”だが、こちらが経験しているパリはそんな立派な街ではない。しかも、話が観念的過ぎると思う。むかしは知らないが、今のパリは、「路上の物売り、旅芸人、移民に異教徒。そうした部外者つなぎとめ包容」したりなんかしない。

DansLaRue1.jpg 一度パリに来て、地下鉄で物乞いする「移民」たち、特に若く、地下鉄の通路の跪いている、時には10代の幼い移民たちを見るがいい。就職難にあえぐ(多くは人種差別のため)「異教徒」たちを見るがいい。「異教徒」たちも、「路上の物売り」も、「芸人」も、パリの生活が高すぎて郊外に出てゆき、その郊外のいくつかは行政サービスの手が届かない“荒野の町”であるという現実を見るがいい。

 いくら自社主催の展覧会のチョウチン記事であるとはいえ、この手のものを読むと、いつも、知識人特有の観念的で、自分のイメージの投影、幻想一杯の考えだなあと思う。朝日新聞に限らない。日本の“批評家”やコラムニスト、哲学者の書くものは、こんなものが溢れていると思う。「自分に都合の良いかってな事、言ってるぜ」と思う。

 アメリカにいた時もそう感じた。アメリカに行く前、何人かの「アメリカ体験談」を読んで行ったが、ほとんどが誇張されたものか、デタラメだった。2年、3年ほどいて、その印象を書いたということがミエミエだった。2年ほどいると、オモシロイことをたくさん見聞する。しかし、それ以上長くいると、それが、どこまでが個人的な体験で、どこまで一般的な背景を持っているかが、少しずつ見えてくる。そうなる前に、“興味あるアメリカ”を文章にしてしまうのだ。

 パリについてもそうだ。たとえば、前にも書いたが、むかし読んだものの本には、「パリでは誰もクラクションは鳴らさない」「クラクションを鳴らすと罰金だ」などと書いていた。来てみて、それがまったくの嘘だと分った。十数年前はそうだったと言うかもしれないが、パリジャンによると「ここ十年は良くなった方だ」という。そうだとすると、以前はもっと酷かった、ということになるだろう。

 この天声人語の著者は、パリの特派員の意見を仰ぐべきだろう。あ、特派員自身が長くいないのか?もちろん、この天声人語の著者自身が、パリに長く住んだことがあるのかもしれない。しかし、そうだとしたら、かなりの盲目者だということになる。

posted by ろじ at 00:00| パリ 🌁| フランス・社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月01日

天使の輪

ある日曜。
混みあった電車の中。
白人、黒人、モスリム、アジア人……。
人々は無言のまま、人種的なテンションを漂わせている。

Carrousel1.jpg小さな駅に止まると、かわいい歓声が聞こえてきた。
幼稚園児とおぼしき子どもたちが、大勢入ってくる。
先生らしきおとなに引率されて。
座る場所がない幼い子どもたちは、手を取り合いながら、やっとの思いで立っている。 
でも、この“遊園地”のような乗り物はいつも楽しみ、
というように目を輝かせている。

電車が揺れるたびに、嬉しそうな「わーっ」という興奮した声。
かん高い歓声とともに、電車の中の緊張が解けてゆく。
電車内に、ホッとしたように、笑みが広がる。

ルーブル美術館駅。ここで降りるようだ。
先生の命令で、子どもたちは5人ずつ組になって手をつなぐ。
5人が両手でしっかりと手をつなぐ。
そこに先生が入り、六人で輪を作る。
子どもたちは、またニコニコ。
子どもたちは、手をつなぐことが好きらしい。

「ついてくるのよー」という先生の掛け声で、
天使たちが、いっせいに降りてゆく。
全部で4つの輪が、しっかり手をつなぎ、
軽やかなリボンのように、歓声を上げながら降りてゆく。

プラットフォームに、4つの華やかな輪が広がった。
先生も、4人。
それぞれ、自分の輪の子どもたちを確認し、笑顔。

ゴムのような4つの輪は、柔らかく二列に変形し、
ウキウキとした流れになって、出口の方に消えて行った。

電車は、いくつものなごやかな顔を乗せて、走り続ける。

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