2010年02月26日

スポーツ後進国 日本

 バンクーバー冬季オリンピックの競技を、TVでいろいろ観たり、報道を追っている。しかし、日本とフランスのメディアが報道するものは、なんと違うことだろう。同じオリンピックと思えないくらいだ。強い種目も国民の関心も異なるので、仕方ないということか。

 それにしても、日本はフィギュアの報道や特集ばっかりだね。しかも、ずっと女子ばかり……、かと思うと、男子が銅メダルととるやいなや、今度はそればっかり。ちと歪んでないかい?はしゃぎ過ぎではないかい?

 どうも、オリンピックは日本人にとって、単なる4年に一度のお祭りのようだ。オリンピックを冬季スポーツの振興のための一部とするのでなく。このオリンピックに出るために選手が(人によってはバイトをしながら)4年間継続的にしてきた、苦労の意味を考えるでもなく。

 歪んでいるのは、オリンピックに参加する方も同じなようだ。23日の朝日新聞の夕刊に、長野五輪金メダリスト・清水宏保氏の「スポーツ後進国 日本」と題するコラムが載った。それによれば、日本のサポート体制には恐ろしいムダ、いや甘えがあるようだ。利権や特権で美味い思いをしようとする<日本的伝統>は、オリンピック関係者にもあるようなのだ。

 ネットで発見した説によると(だから正確ではないかもしれないが)、今回、バンクーバーに現地入りした「選手団」は203人。競技に参加する選手は93人である。(選手団団長でありながら国会議員でもある橋本聖子氏が、この国会会期中になぜ外国に来ていられるのか、にも疑問がわくが。)たいへん貴重な文章で、いつなくなるか分からないので、貼っておく。
スポーツ後進国 日本
                            2010年2月23日17時8分
 僕はこれまで本当に多くの方にお世話になった。地元の方々、応援してくださった皆様、用具の面倒を見てくださる方、日本オリンピック委員会(JOC)の皆さん。すべての人の支えがあって、4大会連続五輪出場、金、銀、銅メダルの獲得があった。

 不遜(ふそん)かもしれないが、申し送りをしておきたいことがある。少し、厳しい言い方になる。が、聞いていただければ幸いだ。

 日本はまだまだスポーツ後進国というしかない。五輪の期間中、国中が注目しメダルの数を要求される。選手が責任を感じるのは当然だが、ノルマを課せられているような感じにもなる。それまでの4年間のフォローを国やJOCはきちんとしてきたのだろうか。

 政府の事業仕分けが行われ、スポーツ予算は削られる方向になった。全体的な削減は仕方がないとしても、仕分けの仕方は適切だろうか。

 例えばお隣の韓国はスポーツ先進国になった。国威発揚という特殊な事情があるにせよ、お金の使い方が違う。日本には国立スポーツ科学センターがある。韓国にも同じような施設がある。韓国ではそこに選手が集められ、招集された時点で、日当が出る。日本では利用するのに料金が発生する。韓国ではもし、メダルを取れば、ほぼ生涯が保証されるのに対し、日本の報奨金は多いとは言えない。

 バンクーバー五輪では、JOCの役員、メンバーが大挙して現地入りしている。予算は限られている。そのため、選手を手塩にかけて育てたコーチや、トレーナーがはじき出され、選手に快適な環境を提供できていない。お金の使い方が逆だろう。

 競技スポーツだけではない。「1人1ドルスポーツの予算をつければ、医療費が3.21ドル安くなる」という統計を見たことがある。ヨーロッパではスポーツ省のある国が多い。スポーツを文化としてとらえる発想が根付いているからだ。生涯スポーツが、また競技スポーツのすそ野となる。

 五輪の時だけ盛り上がって、終わったら全く関心がないというのではあまりに悲しい。日本にスポーツ文化を確立させるため、国もJOCも努力を惜しまないでほしい。(長野五輪金メダリスト・清水宏保)
http://www.asahi.com/olympics/columns/from_vancouver/TKY201002230298.html 
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2010年02月20日

日本の演劇の特徴?

 昨日の続き。観劇後、一緒に観た美女と、居酒屋で日本酒を飲み交しながら感想を言い合う。

 話しているうちに話題が広がり、フランスの(コメディー・フランセーズなどの)古典劇と比べると、日本の演劇は、古典芸能もふくめて、観客の生活と一線が引かれている、何かそこにあるのではないか、という考えを述べてみた。パリの古典劇の殿堂コメディー・フランセーズで、モリエール劇を観に来た子どもたちがゲラゲラ笑っているのは一つのカルチャーショックである。それは、彼らの日常生活と劇の中身とのあいだに断絶がないためではないだろうか。たしかに、『シラノ・ド・ベルジュラック』はどこにでもある話ではないが、一つ一つの要素はどこかで起こってもいい話である。『シラノ・ド・ベルジュラック』は喜劇であるが、その意味で空想劇ではない。

 そんなことを話しながら、文楽・歌舞伎・能の古典芸能はもちろんのこと、もしかしたら日本の演劇舞台というのは、なにか非日常的なものに集中しているのではないか、と思え始めた。そこで、「日本の演劇は、(ハレとケの)「ハレ」(非日常的なもの)の舞台なんじゃないかと思うんですよね。日本の翻訳・翻案劇もそうだと思います。チェホフの『桜の園』は流行る(かつて流行った)かもしれないけど、あれは日本の話ではないでしょう」と言った。

 そしたら、美女はさかんに感じ入ったらしく、うまいことを言うと褒めてくれた。そして、「そういえば、わたしはハレの舞台がだーい好きなのね。蜷川シェイクスピアなんて大好キ」と、興奮しながら言った。

 シェイクスピアの『ハムレット』や『マクベス』は、たしかにこの世のお話しとは言い難いが、発表当時の社会背景を考えれば、イギリスの社会をなんらかの強い形で反映しているのかもしれない。いや、そう単純なことではないだろう――。すばらしい文楽の夜の余韻は長く続いて行った……。
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2010年02月19日

文楽2月公演・曽根崎心中

2月文楽公演・曽根崎心中

 忙しい忙しいと言いながら、今月の第一週末、東京での2月文楽公演を観に行ってきた。国立劇場、出し物は『曽根崎心中』。日本でできる至福である。
「立ち迷ふ、浮名を余所にもらさじと、包む心の内本町、焦がるゝ胸の平野屋に春を重ねし雛男……」と始まり、お初が
   「――わしの心を知りもせず、どうしたことで窶(やつ)れた
   とは、あんまり惨(むご)い徳様」
と、じれた眼で恨む「生玉社前の段」から、最後の、お初が徳兵衛の脇差しに刺された瞬間、ビクリと体を震わせて息絶える「天神森の段」まで、人形というものがこれほど生々しく、細やかな感情を人間よりも雄弁にかたるのを目の当たりにして、しばらく感動がおさまらなかった。

 心中にやって来た森で人玉が漂うのを見て怖がるお初。死ぬ直前となって、お初はこの世に残す両親を気遣い動揺を舞うように表現するが、体のこなしは決して不自然ではなく、その動きは当然であるように見える。さあいざとなって、ひるんだ風情の徳兵衛に対し、お初が二人の体をつないだ帯を引っぱる、そのかすかに傾いた体に表れた力、意志、気力、覚悟。そして、刺される直前に、両手を合わすお初の顔は、両目を閉じながらも、虚脱、よろこび、絶望、意志、悲しみすべてを表していた。こんなものを目にできるのは、幸運と言うほかない。

 今回、お初と徳兵衛は、現在おそらく最高の組み合わせと言える、吉田簑助と桐竹勘十郎。桐竹勘十郎の徳兵衛も、地味であったが、もちろん良かった。中段の「天満屋の段」は、大夫に豊竹嶋大夫。とてもよろしい(他との差がありすぎたのが悲しかったが)。さすが、いま切(きり)を任せられる四人のうちの一人。

 開始の6時半から2時間があっという間であった(しかし、開始6時半、終了8時半というのはフランスではありえんな。フランスは、劇は8時半からが普通だ)。「天満屋の段」の最後、死ぬ覚悟を決めた二人が抱き合って、大夫は、
   顔を見合わせ「アゝ嬉し」と死に行く身を悦びし、哀れさ辛さ
   浅ましさ、後に火打ちの石の火の、命の末こそ
「哀れさ辛さ浅ましさ」というくだりを発見。けっこう突き放してるんだな、と驚いた。

 観劇後、一緒に観た美女と、酒を飲みながら感想を話し合った。
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2010年02月17日

「國母論争」に思う

なんとか元気でやっている。

さて、スノーボードの國母選手の服装(とその後の彼の応答)が、話題になった。人々の反応を見ていて気になることを。

「あんなことがあっても、競技で勝つなら許す」「あんなことがあったのだから、競技で勝てなかったら○○を受けるべき(○○にはある種の罰が入る)」という議論をする者が、少なからずいる。これはおかしい。礼儀やドレスコードが問題であるならば、勝っても勝てなくても、非は非であろう。この論理は、「勝つなら、優勝するなら、何をしても良い」という論理につながる。それは、朝青龍問題にもつながる問題だろう。

その裏側には、賞を取った者、強い者、権威がある者には何もいわない――ルールや公正さや正義よりその方が大事、という、いかにも日本的な権威主義・「寄らば大樹の陰」的な構図が見える。(見方を変えれば、それは「自己保身」とも言えるだろう。)

彼のふるまいの問題は、「国を代表する意識があるなし」以前に(そもそも、今の若者にどのくらいその意識を優先させる者がいるか疑問だが)「公」と「私」の使い分けができていないことだと思う。わずかでも公のカネを使い、何かの代表となった時点で、「公」の装いを帯びるだろう。

(公の場で)「公」と「私」の使い分けができない者を、「未熟」とか「幼稚」という(幼稚な者が何をどう着こなしても、魅力的には見えないと思うが、まあそれはわたしの個人的な好みの問題であろう)。そして、自分ができないのに、他人にはそれを要求することを「ダブル・スタンダード」と呼ぶ。

さらにいやらしいのはメディアであると思う。競技開始の数日前から、「国母選手は昔からこんな苦労をしてきた」、「こんな若い頃を過ごしてきた良いヤツだ」、というトーンの記事が増えた(特に、朝日新聞参照)。かつてのバッシングはどこへやら。あたかも、国のために戦うんなら悪いヤツであるわけがない、あってはいけない、一緒に応援しよう、という傾向が見える。メダルでも取ったら、お祝いに乗り遅れるのが怖いとでもいうような、卑しい姿勢である。日本のメディアとは、かくのごとき風見鶏だ。
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2010年02月05日

いろいろある

いつも行く大好きなビストロで1

まあ、人生いろいろある――。
取り直して、やっていこう。

仕事で体はボロボロ、
心臓はバクバクですが。
posted by ろじ at 00:00| パリ ☁ | TrackBack(0) | フランス・社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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