2010年06月28日

松井、欧州で「争奪戦」

日本代表の松井が欧州チームの間で「争奪戦」になっているという。
http://southafrica2010.yahoo.co.jp/news/ndetail/20100628-00000020-spn-socc

当たり前の話だ。彼のセンスの良さ、ポジショニングへの気配り、冷静さ、タフさを観れば。シュートした者ばかりを持ちあげるのは、馬鹿げている。
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2010年06月25日

家事

妻は、医者には月曜に診てもらうことになった。とりあえず、安静にして、痛いのを我慢して頻繁に授乳する(風邪だとしても、母乳からは子供には伝染らないはず)。

こちらは、その分、代わりにあれこれ家事をする。しかし、ゴミ、洗濯、片付けなどいろいろうまくいかず、しかも、やり始めるとふだんちゃんと整理や整頓してなかった物事が目に入って来て、自分に腹が立った。「まったく、何やってたんだ!」
毎日の生き方をもっとしっかりしなくては。
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2010年06月24日

風邪?乳腺炎?

(育児日記より)
妻が熱を出している。かなりの高熱で、体もダルイという。風邪になったか、とパコにうつるのが心配で授乳時にもマスクをしている。

同時に右胸が痛いという。乳の側面が硬くなり、まるで板が入ってるみたいだ、と言うのだ。どうやら乳腺炎かもしれない、という。乳腺炎の症状は風邪に似ているそうだ。

しかたなく、妻は寝ていてもらうことにし、食事も風呂も全部自分がやらねばならない。夕方、グズるパコをベビー・ラックに乗せたままキッチンわきに置いて、夕食の用意をする。ジーッと見ているので、包丁を動かしたまま、話しかける。
「なあ、パコ。パコは大きくなったら何になるかなあ」
パコは、手を口に入れたまま、ニコニコしている。
「どんなスポーツ、やりたいかなあ。パコは、テレビでサッカーの試合になると、じーっと見てるなあ。サッカー選手になりたいのかなあ……」
パコは、ヨダレをツーっと垂らしながら、ニコリとした。

風呂はなんとかだまして入れたが。明日の午後は仕事を休まねばならないだろう。
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2010年06月21日

フロ拒否

(育児日記より)
数日前から、パコが一緒に風呂に入ると、泣き出すようになった。大変な泣きようで、風呂場の窓から響く声は、きっと虐待されてるのではと誤解されてしまうんではないか。
まるで、悪漢から身を護る風である。
いくら娘には「おとうーさん臭くて嫌い!」があるとはいえ、早すぎないか?

前回、ちょっと熱めの風呂に入れてしまい、それがトラウマになったのか。入れた瞬間、背中を持ちあげるようにしたのである。もっとも、いつもそうなんだが。冬の間は、風呂に入れると言うと「キャッキャッ」と喜んだので、風呂が好きかと思っていた。夏の風呂は、やはり嫌なのかしらん。

あるいは、体を洗っている時から「被害者泣き」を始めたので、以前、石鹸を口に入れてしまって、その苦味がトラウマになっているのか。いずれにせよ、仕方ないのでしばらく妻が入れることになった(トラウマがとれるまで?)。困ったことになった。
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2010年06月19日

お食い初め(Ceremonial First Eating?)

お食い初め

生まれてから百日たったとかで、「お食い初め」をした。妻は日本の伝統には疎いくせに、そんな儀式にはかなり乗り気で、いろいろ調べてきて、近くの神社で石を拾ってきたりした。
  「菱形のキレイなのが見つかったわ」
なんて言っている。形はどうでもいいはずだが。

豪奢で優雅というわけにはいかないが、妻は朝から苦労してそれなりの御馳走をならべた。パコに儀式的な「初食い」(って言うのかしらん)をすると、母乳かミルク以外のものを口にしたことがないはずなのに、可愛い口をちゃんと開けて食べたそうにした。

妻が「『お食い初め』って、英語で何というの」と訊くから、「Ceremonial First Eating」かねえ、と適当なことを言っておいた。野球の(単なる儀式の)始球式は、英語で「Ceremonial First Pitch」だし、良いんでないかい?

さあ、この後から、本物の食い気(食い意地?)がやってくるのだ。乱打戦(大食い、または過食症)になるかもしれんし、貧打線(小食)になるかもしれん。試合放棄(拒食症)にだけはならんように祈ろう。
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2010年06月18日

例の痛み?

起きたら、右ひざが痛い。右足の小指の外側も痛い。今日は歩くこともできなかった。夜、見たら、赤くなって、やや腫れている。

痛みは疲労させるな。肉体的にも、精神的にも。やる気が、まるでなくなる。
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2010年06月15日

W杯:日本vsカメルーン戦

遅かったので、生では観れなかったので、翌晩、観戦。
パコも、開始のホイッスルとともに異常な関心を示して、首を伸ばしてのぞき込んだ。

翌晩に観たが、良い試合ではあった。彼と同じくフランスにいたせいではないが、松井はいい選手だと思っていたから、活躍したのは当然だと思う。他の日本選手みたいに簡単に当たり負けしない(その点、岡崎はマダマダだと思います)。ドリブルも献身的だ。多くの解説者が松井を先発にあげていなかったのは、不思議でならなかった。

さすがに勝って意外だった。というのは、守備に不安があったから。しかし、最後の5、6分は、守備が最後尾まで引いてしまって、運が幸いしたとしか思えない場面がいくつかあったように思う。次戦に向けて修正できるか。

世間は大変な騒ぎようだ。かつて岡田監督を袋だたきしていたメディアは、一転、絶賛の嵐。「愚かな指揮官」が、「傑出した名将」になった。本田も英雄扱い。しかし、ゴールの場面は、60%は松井の手柄ではないか。右足から左足に切り替えてドンピシャのボールを出した彼を誉めるべきだろう。

新聞で読んだオシムのコメントが、すべて的を射ているように思う。日本全部が喜んでいるようでは、この国のレベルはまだまだ。このおじさん、実に面白いし、分かりやすいことを言う。オシムのコメント、これからが楽しみ。
http://southafrica2010.yahoo.co.jp/news/cdetail/201006150004-spnavi
 イングランド戦の試合終盤でのオウンゴールと同じような場面がカメルーン戦でもあったことが心配だ。最後は、ゴールライン近くまで最終ラインが下がっていた。5メートルしか余裕がなかった。そこでカメルーンが1点を入れられなかったのは日本が幸運だったからにすぎない。今日の試合結果は、カメルーンにとっては引き分けでもおかしくなかったと思っているはずだ。
(中略)
 だから心配なのは、本田が舞い上がってゴリアテになったかのような勘違いをしないかということだ。本田に言ってほしい、君が1人だけでプレーしたわけではなく、ほかにも10人がいたんだよと。それが思い出せないようであれば、本田にとっても、日本代表の未来にとっても良いことはないだろう。
 今日の試合に限って言えば、本田はデリケートな役割を見事にやったし、褒美としてゴールも決めた。しかし、これは彼のキャリアの始まりでしかない。メディアの皆さんも、今日のゴールだけで本田をヒーローだと持ち上げないでほしい。もし明日の一面がすべて本田ということになれば、日本の未来は危ない。ヒーローは1人ではなく全員だ。もし本田がゴールしたことでヒーローになったとするならば、トラップ技術が巧みでGKの上にボールを浮かすキックができればみんながヒーローになれるということだ。しかし、そうではない。ヒーローは自分の一生と自分の命を懸けて何かを守る存在のことだ。

 日本代表は今日の勝利にかかわらず、ノーマルなチームであってほしい。次の試合で負けたとしても落ち込むことがないように。まずは、今日の試合から学ぶことだ。なぜなら多くのミスが出たのだから。特にメディアの皆さんは選手やスタッフの気持ちを考えて記事を書いてほしい。応援する気持ちで書いてほしい。チームがノーマルな方向で団結できるように、メディアの役割はヘルプすること、サポートすることだ。チームの雰囲気を台無しにすることではないと思う。今ごろカメルーンの新聞記者は、チームが修復不可能になるような記事を書いているかもしれない。日本の皆さん、お願いだから冷静になってほしい。
 今日は、特に日本のディフェンス陣が良かった。サイドの若い選手たちが頑張っていたと思う。
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2010年06月13日

娘の脳死と向き合った家族

NHK教育TVで、脳死についての番組ETV特集『“さよなら”を言う前に〜わが子の“脳死”と向き合った家族〜』を観た。
http://www.nhk.or.jp/etv21c/update/2010/0613.html  

子供を持つと、これまでになかった感覚が自分の中に生まれているのに気がつく。これが親の「倫理の根っこ」というものなのだろうか。
この夫婦の運命の重さと忍耐と勇気とに、心から敬意を表す。
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2010年06月12日

エビゾリーヌ

パコは、横になりながら脚を持ちあげていることがある。興奮しているか、嬉しいのか、短い脚を空中に持ち上げ、両手は左右に大きく開いて、「キャッ、キャッ」言いながらやっている。小さなエビみたいだ。「エビぞり」というと、背中にそること(いわゆる「イナバウアー」)を言うのだろうが。

そんな時、わたしが歌う歌詞(『フランシーヌの場合』のメロディーで)。
  エビゾリーヌの 場合は〜
  あまりにーも、
  おバカさ〜ん♪

妻はそれを聞くと、「なに、それ?」と言う。もちろん、そんな時代に生きていなかったので知らないのだ。(そういえば、このフランス人女性フランシーヌ・ルコントは、パリで焼身自殺をしたのだったよなあ。あちらにいる間にもっと調べればよかった。)

ところが、そのうち、どこで聞きおよんだか、「知ってるよ」と言って、「カトリーヌの場合は〜」と知ったかぶりをした。付け焼刃の知識とはかくのごときのものである。まあ、それもおもしろいので、放っておく。
  エビゾリーヌの 場合は〜
  あまりにーも
  悲しい〜♪
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2010年06月11日

母乳主義

パコの成長は日々眼を見張るようなスピードだったが、その速度もやや落ちたような気がする。ただ、乳を飲む量はうなぎのぼりである。

妻は完全母乳主義だ。自分で育てたいという深い愛情のためや、いろいろ読んで落ち着いた結論なのだろうが、「完全母乳主義」の問題は、赤ん坊が厳密にいくら飲んだかチェックできないことだ。朝か夜かの時間、母親の体調などによって出る量は変化する。当然、赤ん坊が満足できないこともある。

このくらいの月日になると赤ん坊は夕方にグズルこと()が多いのだが、それも充分に飲んでないことに関係してるのではないか、と私は思っていた。

パコの喉元に汗疹らしきものができてきたので、今日、妻は近くの街医者に診てもらいに行った。そこで、身長のわりにややヤセ気味であると言われたそうだ。母乳が足りないのかもしれない。そこで、無理せず人工ミルクをあげては、と提案してみた。

そう言われて、しばらくうつむいてパコをじっと見ていた妻は、「じゃあ、あげてみようか」とポツリと言った。

夕方、風呂に入る前、ミルクを飲ませることに。グズリがやや落ち着いたような気がする。
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2010年06月06日

言葉が生まれる時

電車が向かい合わせに停まるプラットホーム。
アゴタ・クリストフの本をかかえた男性が電車を降り立つと、向かいの電車から、金時鐘の詩集を手にした女性が下りてくる。

失くした言葉と、失くした季節。
見い出した言葉と、生まれくる……。

女性は軽い視線を投げて、歩き去る。
男は、その女性の後ろ姿を、いつまでも見つめていた。
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2010年06月05日

これでバリアフリー?

東京の地下鉄は、エレベーターが完備し車イスでも充分動けると、誇っている。ウェブサイトをみると「バリアフリー」を鼻高々にうたっている。確かに、ほとんどがエレベーターを備えている。

しかし、騙されてはいけない。ベビーカーを押してみて、ハッキリわかった。新宿3丁目駅で、副都心線と丸ノ内線は、ベビーカーや車イスは地下鉄ホームから地上には出られるが、乗り換えができないのである。自分で行こうとすれば、エレベーターを使っていったん改札を出て、外の通路を通ったのちもう一度改札を通らなければならない。

副都心線は、最も近年にできた線だ。エレベーターを付けるカネがないのではない。使う者のことが考えられない……。必要な者への「視点」がないのである。こんな駅は例外ではない。

さらに「開いた口が」の点。車イス利用者などのために、公共交通機関をどのように使ったらエレベーターを使って自らの力でうまく移動できるか(「独立性」が高いか)を示すサイトがある。「らくらくおでかけネット」という。(サイトには国土交通省が名を連ねている。)
http://www.ecomo-rakuraku.jp/rakuraku/index/ 
これで、副都心線の新宿3丁目駅あたりの駅から日比谷線の六本木まで行く経路を調べると、なんと、山手線の外の「練馬」にいったん出て、大江戸線を使えと出るのである。それが一番「独立性」が高いのだそうだが、時間は直接向かった時の2倍かかるのである。

2倍の時間――充分「バリア」ありすぎだろうに。首都なのに、まったく、情けない国だ。
posted by ろじ at 23:04| パリ | TrackBack(0) | 日本・社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月04日

善人問答

数日前、『天声人語』に中野好夫の随想「悪人礼賛」が紹介されていた(下に転載)。興味をひく文なので、読んでみた。「善意と純情」の困ったもの度、退屈さを指摘している。その一部。
 考えてみると、およそ世の中に、善意の善人ほど始末に困るものはないのである。ぼく自身の記憶からいっても、ぼくは善意、純情の善人から、思わぬ迷惑をかけられた苦い経験は数限りなくあるが、聡明な悪人から苦杯を嘗めさせられた覚えは、かえってほとんどないからである。悪人というものは、ぼくにとっては案外始末のよい、付き合い易い人間なのだ。という意味は、悪人というのは概して聡明な人間に決っているし、それに悪というもの自体に、なるほど現象的には無限の変化を示しているかもしらぬが、本質的には自らにして基本的グラマーとでもいうべきものがあるからである。悪は決して無法でない。そこでまずぼくの方で、彼らの悪のグラマーを一応心得てさえいれば、決して彼らは無軌道に、下手な剣術使いのような手では打ってこない。むしろ多くの場合、彼らは彼らのグラマーが相手によっても心得られていると気づけば、その相手に対しては仕掛けをしないのが常のようである。
 それにひきかえ、善意、純情の犯す悪ほど困ったものはない。第一に退屈である。さらに最もいけないのは、彼らはただその動機が善意であるというだけの理由で、一切の責任は解除されるものとでも考えているらしい。(太字は引用者)
そこから、『天声人語』の引用へと続く。しかし、中野先生には悪いが、悪人をこんなふうに言って礼賛できるのは、アメリカによくいるような、本当に極悪非道、何の論理も理屈も通らない残虐なやつにお会いになったことがないからであろう。平気で人を殺すだけではなく、相手をゆっくりとナイフで切り裂く、いたぶりながら犠牲者が苦しむのを楽しむ残虐な奴、また、肉体的な責め苦だけでなく、相手の家族や周囲に精神的苦痛をなめさせネチネチと追い込んでいく陰湿な奴。彼らが耐えがたいのは、そのすることの「グラマー」を予測、いや理解することさえも不可能だからだろう。

そうした「悪人」に比べれば、中野先生が悪人の傾向として挙げる「金が好きで、女が好きで、名誉心が強くて、利得になることならなんでもする」なんてのは、甘っちょろい「悪党」程度のものだろう。そのアタマに「小」か「小賢しい」が付くかもしれない。中野先生の周りの悪人はその程度だからだろう、と言わざるをえない(中野氏が生きていた日本が、そういう環境だということでもあろうが)。中野好夫氏の文は総じて好きだが、この文章はイタダケナイ。

さて、あるところで人に指導している私を見て、さる人は、私が「性格が良い」「善人」だと言った。相手の質問に「それは良い質問だ」と熱心に言うからだという。指導される人々(質問した人たち)も喜んでいるという。長い話は省くが、「それは良い質問だ」と言う場合、その理由は少なくとも3つある。まず、こちらの性格が純粋で良いケース(良家のお嬢様的な方が、相手に反応するケース?)、第2に、理論や論理の“深み”として質問の中に本当に面白い点が隠されていると思うケース(これが質問した当人に判るのは希であるし、その「面白い点」を回答の中で説明するのもほとんどない)、そして、教育・指導する者として相手を元気勇気づけるためにするケース(年少者、小学生を勇気づける場合を考えよ)。

私は第1のケースはありえないから、第2、第3のケースのどちらかである。いずれにしても、質問した者が悦んでいる場合ではない。その「さる人」とは、比較的有名な学者さんで、自分では「悪人」をもって任じている(さかんに言ったり書いたりするのだ)。しかし、上の分類も分かってないふうに見える。よほどの「善人」なのである。ご本人が気づかないだけなのであろう。

おまけ。この「悪人礼賛」に、「友情」についての一節がある。
 友情というものがある。一応常識では、人間相互の深い尊敬によってのみ成立し、永続するもののように説かれているが、年来ぼくは深い疑いをもっている。むしろ正直なところ真の友情とは、相互間の正しい軽蔑の上においてこそ、はじめて永続性をもつものではないのだろうか。・・・
 友情とは、相手の人間に対する9分の侮蔑と、その侮蔑をもってしてすら、なおかつ磨消し切れぬ残る1分に対するどうにもならぬ畏敬と、この両者の配合の上に成立する時においてこそ、最も永続性の可能があるのではあるまいか。10分に対するベタ惚れ的盲目友情こそ、まことにもって禍なるかな、である。
これは、大賛成。無邪気に「友情」「友情」と謳いあげる人を、私は信用しない。それから、単なる知人を「彼は友達」と呼ぶ奴は、もっと信用しない。

『天声人語』(6月2日付け)
 政治や社会への発言も多かった文学者の中野好夫に「悪人礼賛」という随想がある。「由来ぼくの最も嫌いなものは、善意と純情の二つにつきる」と、冒頭から刺激的だ▼「彼らはただその動機が善意であるというだけの理由で、一切の責任は解除されるものとでも考えているらしい」「(詰問すると)切々、咄々(とつとつ)としてその善意を語り、純情を披瀝(ひれき)する」。さらに、五十歳を超えてもその純情を売り物にしている不思議な人物もいる、と続く。古い一文ながら、だれかを思い起こさせる▼動機の善悪で結果が斟酌(しんしゃく)されないのが政治だろう。「よかれと思って」では収まらない。それを知らぬ鳩山首相でもあるまいに、どこか「甘え」が抜けきらない。普天間問題の独り相撲で、「不思議な人物」は土俵ぎわに追い込まれた▼社民党は政権を離脱した。福島大臣は罷免され、辻元副大臣も辞任した。ともに行政を率いて志半ばである。筋を通した2人が思い余って泣く姿は、図らずも鳩山さんの「変節」を際立たせた。人は大抵、理のある側に肩入れをする▼「タフでなければ生きていけない。優しくなければ生きている資格がない」はハードボイルド小説の名せりふだ。政治家にも当てはまるものがあろう。だがタフと鈍感は違うし、優しさが優柔不断の裏返しでは困る。首相についた疑問符は小さくない▼退陣要求は民主党内から公然と出ている。政治手法が自民に似てきた民主だが、短期の首相退陣まで焼き直しになるのか。どちらに転んでも、政治の貧困は国民にへばりつく。
http://www.asahi.com/paper/column20100602.html
 
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2010年06月02日

自分の体

パコの指しゃぶり(手しゃぶり)、このところ、やっと親指だけをしゃぶるようになった。

しかし、他の指をどこに置いていいのか分からないらしく、長い指(本当に長いのだ)を眼や頬に持って行く。爪がのびたままになっていると、危険きわまりない。以前は、手や指を自在に使うことができなかったようで、頬や目元に傷をつけたことも一度ではない。

手を使うことができるんだ、と思ったのは、今日、近くに置いていたガーゼを握った時だった。これまでは、たまたま近くにあって手に触れたものを握っていたが。
自分の体は、自在に使えるようになって、「自分のモノ」となっていくのだろう。次は、コトバだ。
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