2007年09月17日

日本人の政治的発言

前回、ニューヨーク・タイムズ紙を引用して書いた「安倍首相辞任」について、もうひと言。まあ、オッサンのグチである。グチを言うのは、おっさんの習性みたいなものである。

「日本人も、『いやあ、安倍さんだからこそこんな短期間に政府の信頼を失墜させたんだねえ、さすがだねえ』とか、距離置いて皮肉ってる場合じゃない」と書いたが、どうも、最近のブログ等での発言を含めて、日本人のいわゆる知識人といわれる人たちの政治に対する姿勢には、気になることがあるのである。

上の書き込みの裏には、日本の首相がこんな「情けない振る舞い」をする背景には今の日本の政治風土があり、日本の政治風土がこんな状態になった背景にはこれまでの歴史があるだろう、その意味ではその歴史に(投票やその他の形で)かかわってきた国民にも責任はあるだろう、というゴクゴク当然の論理が念頭にある。

ところが、日本では、いわゆる評論家を除いて、自称他称の「知識人」の発言が、妙に政治から距離を置いているように、あるいはそう言うのがまずければ、妙にはすかいに構えているように見えてならないのだ。もちろん、皮肉やシニカルさも、批判の一部として重要な武器であることはある。だが、日本でされる言説の多くの「皮肉やシニカルさ」は、対象にコミットしない姿勢や、それを小ばかにした雰囲気をかもし出しているように思われる。

これはなんなんだろう? それは、わたしが、フランスという、ほとんど誰もが政治的な発言をしたがる国にいるため、(以前日本にいた時よりも)なおさら強く感じるのだろうか。この国の投票率は、ゆうに80%を越える。選挙などの政治的イベントがあれば、テレビでは文字通り朝まで議論する国である。たしかに、国民性かも知れず、日本とは比較にならないだろう。しかし、そこには、「政治は国民である自分が作っているのだ」という信念が感じられる。それはたぶん、民主主義にとって非常に大事な信念だろうと思う。

<まっすぐに怒る>ことは大事だと思うのだ。日本のこの状況とフランス国民を比較するたびに、最近亡くなった小田実氏のことを思う。以前、このブログで「小田実の怒り」という文章を書いた。そこで、
「小田実が、その睨みつけるような風貌でなぜこれほどまでに怒っているのかというのは考える価値のある問題だと思う。あるいは、なぜ彼だけ怒っているように見えるのか、というべきか。日本人は怒らない――怒らないことを、なにか「大人らしい」こととみなして、怒るべき出来事を水に流して、いや、怒るべき出来事に目をつむっている国民だと思う」
と書いた。その思いは今でも変わらない。
http://dokugo.seesaa.net/article/7760861.html

日本では古くから、「政治はお上のこと」、「難しい議論は会話になじまない」、「真剣に議論する人は、とっつきにくい」という知的雰囲気があったと思う。そうした考え方には納得できないが、それを百歩譲って認めたとしても、いまの皮肉やシニカルさはなんなのだろうか。

これは、しばらく前に、日本社会に嵐のように吹きすさんだ「軽さバンザイ」だけではないと思う。これは、某巨大掲示板などでの一部の投稿者が見せる、片足は逃げ易いところに置いておきながら、“背中を向けつつ”断片的な言説を書き込んで行くという風潮と、なにか一致するものがあるような気がする。そして、それは、いまの日本人の多くが、実際に顔を見せてモノを言う時はとても消極的だが、顔が見えないネット上になると、とたんに雄弁に、さらに攻撃的にさえなる傾向と無関係ではないのかもしれない……。

一つの例外:Yahooに「Yahoo!みんなの政治」という最近できたコーナーがある。ここでは、各政治家について、誰もが「政策」「情報公開」「政治実績」などについて評価を下すことができ、自由にコメントを書き込むことができる(誰の指図か、なんと!時どき“批判的なコメント”が削除されるようだが)。読むかぎり、真剣な国民が多いことに驚く。彼らの怒りは健全で、決して非生産的ではないと思う。


posted by ろじ at 00:00| パリ 曇り| 日本・社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする