2006年04月29日

海外修業

アメリカでしばらく苦労なさっていらした若者と、酒を飲む機会があった。

「日本で就職活動していると、年配の方と話す機会があって、いろいろ言われます。まさに、上から叱られ諭されって感じなんですが……。いろいろおっしゃいますが、どうもねえ」と若者。
「結局、海外でのこちらのした苦労など、分かってないということですか?」と、おれ。

「そう、向こうで下積みからやっていたシンドさなんて、決してわかってもらえないと思いますよ。日本の特に偉いおじさんなんか、とくに社会や世界を判ったようなこと、おっしゃるんですけどね――」
「自分の洗濯もできないくせに……ねえ。奥さんが用意したネクタイとワイシャツ着てね。たしかに、そういう『人の道』とか説くやつ、向こうに連れて行って、短期の旅行でなく、一年でも二年でも独力で生きてみたら、って言いたくなるよなあ」

日本には、“人生訓おじさん”がウンザリするほどいる。年功序列の延長線、男尊女卑と、さして違わないメンタリティー。

隣では、盃を片手に若い女が男に日本の会社での苦労話を訴えながら甘えている。男は、わけ知り顔に人生いかに生きるのが大変かを諭していた。人生訓おじさん予備軍が、こんなところにもか……。
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2006年04月20日

未踏の分野

床屋で主人に頭を刈られながら、発明の話になった。そして、おきまりのように日本人はあまり独創性がないということになり、さらに、世に出た発明品・改良品の多さに話がおよんだ。

「こんなにいろいろ便利なものができて、もう、あと欲しいものはないんじゃないですか」と、おれ。「あとは、空飛ぶ自転車とか、どこでもドアとか――」
すると主人が
「毛生え薬ですかね。売れますよー」
と、ニヤリとした。

なんでも、最近、あの人気毛生え薬「ローゲイン」の後にアメリカでできた薬が日本に入ってきたという。しかし、日本の厚労省は、そのままではなかなか認可しない。結局、薄めて売ることになったのだそうだ。

「競争がある分野は、政府への圧力がすごいんじゃないですか?」と、匂わせてみると、主人は、
「そうですねー。たとえば、かつらのアデ○ンスなんか、いい毛生え薬が売れたら嫌ですからね。そりゃ、いろいろあるんでしょ」と、さすがに、その業界に詳しそうに言った。
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2006年04月12日

日本の新聞の不思議なこと

ずっと昔から、日本の新聞を読んでいても分らないことが多いと感じていた。

アメリカに暮らしていた何年かは、もちろん、あちらの新聞を読んでいた。アメリカ新聞メディアの、ある出来事が誰によって、どうして、どのように起こったのかを説明しようとする姿勢(いつも上手くいくわけではないし、そうしない地方紙なども多いが)に慣れてしまうと、帰国してから読む日本の新聞のスタンスが不思議なものに見えてくることがある。

今回、将棋の名人戦が、主催契約を来年度以降、毎日新聞のから朝日新聞に移すことにしたという。しかし、記事を読んでも、そもそもなぜ毎日新聞をの契約を更新しないことにしたのか、毎日新聞のどこに問題があるのかは、はっきりと書いてなく、まったく分らないのだ。
名人戦「契約更新せず」 将棋連盟が毎日新聞社に通知(4月12日)
http://www.asahi.com/shougi/news/TKY200604120367.html

事実を全部伝えないのは、同じ業界のことだからではない。こんな報道はしょっちゅうである。最近のスケート連盟のスキャンダルしかり、富山県の射水市民病院での末期患者の人工呼吸器が取り外し事件しかり(なぜ後になって「取り外しをお願いした」と言い出す遺族がどんどん出てきたのか)。事実を全部伝えないこうした報道姿勢が、週刊誌にネタを提供する“温床”になっているようだ。

新聞以外のメディアと一緒でなければ事実が分らないなんて、まったくイライラするし、“誇張癖”のある週刊誌に頼らなくてはいけないとは、そもそも不健全だと思いませんか。
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2006年04月08日

スリの「ハッピーワールド」

先日の朝の出勤時のことである。日暮里駅かどこかで、スリ集団が捕まった。その時、容疑者たちが催涙スプレーを撒(ま)いて、駅のホームは騒ぎになった。
http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20060406k0000e040041000c.html
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/jiken/news/20060407k0000m040161000c.html

そのニュースを、朝の報道番組が伝えていた。スリグループは韓国から来たプロだそうだ。催涙スプレーどころか、刃渡り20センチ以上の刺身包丁を所持する武装集団であるという。

そのニュースで気になったのは、グループの言ったというコメントだ。先進国の中でも日本に来るのは、それなりの訳があるという。日本人は、金をたくさん持っている上に、「無警戒で、弱く、軽い」と言うのだ。

「弱く、軽い」というのがどういう意味なのかは説明していなかったが、よく分るような気がする。女の子は派手な身なり。バッグなども無警戒に振り回す。男も、まわりに注意を払うことがほとんどない。そして、一様に携帯電話に夢中だ。

「危険」という観念がないようにみえる。だから、楽天的というより無垢な感じさえする(話などをしていると、それが妙に鼻に付いて苛立ったりするのだが)。外国で日本人が犯罪のターゲットになるのも、うなずける。

ニュースもメディアも、安全を脅かすような社会的な事件がおきなければ危険を決して問題にしない。社会がある以上、人間の作り出す危険というものがあるという前提がない(この国の耐震構造を取り締まる法律などは、その好例かもしれない。国は「性善説に基づいている」などと言ったものだ)。この国にひさしぶりに来た時には、この国は事件など決してない「ハッピーワールド」かと思ったものだ。

スリにとっても「ハッピーワールド」なのかもしれない。
posted by ろじ at 13:15| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本・社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月29日

日本のセクハラ

先日、学生(大学院生)を含めて飲んでいたら、大学でのセクハラの話になった。

目の前に座っていた大学院生(博士課程)の女性に、もし自分の指導教官にセクハラされたらどうするか、と訊いてみた。

彼女は
「自分の尊敬する人だったら、(告発も)何もしないと思う」
と答えた。

この答えは、ちょっとショックだった。彼女は知性も教養もある大学院生のはずである。しかし、こういう考え方こそ、大学や宗教団体や、その他の集団でセクハラが起こったときに、多くの女性がそれを我慢する理由なのかもしれないと思った。

間違っているかもしれないが、日本人にはこのような“権威尊重(追従?)ゆえの自己犠牲”が多いような気がする。
posted by ろじ at 23:49| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本・社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月17日

迫害するものたちの論理

先日書いたようにクレーのとても良い展覧会に行ったのだが、その直後、NHKで、クレーについてのドキュメンタリーを観る機会があった。

クレーは、ナチスドイツのユダヤ人迫害、ヒットラーの意に沿わぬ芸術の弾圧のため、スイスに逃れることになる。そのナチスの態度を、クレーは「ばかげたお祭り」という題のスケッチで象徴的に表している。

その番組を観て思った。人種や考え方が違うから、単に自分の意に沿わないから、異なるものは自分たちを脅かすと感じるからというだけで弾圧・迫害し、脅迫でおどし、疎外して傷つけることの、愚かさ、ばからしさ、愚劣さ。
日本人にも、残念ながら、時に、異なるものを疎外しようとする人たちがいる……。
posted by ろじ at 23:55| 東京 ☀| Comment(4) | TrackBack(0) | 日本・社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月15日

旅から帰って――漫画 そして文化の安定さ

帰ってきました。
旅行から帰り、山手線に乗ると、目の前の若者数人が、一心不乱に漫画を読んでいました。

旅先から東京に戻ると、いつも目に付くのは、若い人たち(時に、おじさんも)が、漫画を読んでいることだ。特に、今回のように人里離れたところを埃にまみれながら歩き回ってくると、そういうもはや伝統と化した“日本的な文化”が、やたら目に付く。

いや、それは新幹線の中ですでに始まっているのかもしれない。おじさん達は、席に着くやいなや、ビールを飲みながらスポーツ紙を広げる。そこには、たいていエロ情報が露骨な写真つきで載っている。その紙面をあたりかまわず大開きにし、周りに女性がいることにも注意を払わないらしい。彼らは、ビールを飲み終わるころには、大口を開けて、イビキをかいて寝るのだ。
おじさん達は疲れているのだろう。

漫画を見るのが、一方的に悪いというのではない。漫画ばかり読んでいる人と話していて気になるのは、その話題が極端にかたよっていることだ。率直に言って、話題はあまり豊富ではないようだ。

実は、そういうことを、アメリカにいる時に、アメリカ人の女性からも何回か指摘された。ひと言でまとめると、日本の男性は、話していても面白くないというのだ。英語ができなくても、体験や冒険や知識が豊富だとそうは感じないらしいから、言葉の問題ではないらしい。

日本人弁護のために、
「アメリカだって、ティーンエージャーは話していて面白いですかねぇ」
と反論してみたが、たいていは、
「日本人の男性で話がつまらないのは、若い人に限らない」
と、ピシャリとやられて、反論に窮したものだ。

電車の中で漫画を読んでる若者を見ると、いつもその会話を思い出す。

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今回の旅行の土地は、日本の中でも古い建物が多かった。そういうものに囲まれて歩いていると、なぜ“古いもの”は居心地が良いのか、いや、“新しいもの”ばかりでは、なぜ不満に感じるのか、が分ったような気がしてきた。

アメリカの都市や街は、せいぜい200年の新しいものに溢(あふ)れているのだが、そこにいた時に感じていたのは、一種の不安定さだったのかもしれない。

“古いもの”には安定さがある。それは、コミットメントの「安定さ」のような気がする。それは、裏返すと、アメリカ人のコミットメントのなさに通じるような気がする。アメリカ人は自分で一度言ったことでも、平気で無視したり覆したりするのに、向こうにいる日本人は苛立つことが多いのだ。

もちろん、コミットメントの「安定さ」は、コミットメントの「深さ」に繋がり、その「深さ」が深いほど、それは束縛になるだろう。歴史や伝統の“圧迫感”は、時に若者が嫌うように、よく問題にされる。

しかし、アメリカに長くいすぎたおれには、この「コミットメントの安定さ」が心地よいのかもしれない。(漫画が新しいのか古いのかは、分らない。)
posted by ろじ at 23:12| 東京 ☀| 日本・社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月22日

この国の批判する精神

今日の朝日新聞(夕刊)に、加藤周一の『夕陽妄語』が載っていた。「人生の三期」と題し、人生の「青年」「中年」「老年」の生き方について論じていた。幼年時代をいわば前奏曲として、その後の三期に何ができるか――。
「(日本の社会構造に由来する)比較的集団の圧力が弱い時期は、個人の生涯に二度あり、二度だけある。それは第一に就職以前の学生時代、第二に就職以後の老年期である。圧力が弱ければそれを破って自由にものを考える可能性も大きい。(中略)もちろん退職後の発言の影響力は小さい。しかしゼロではない。批判精神の活性化はそこから始まる他はないだろう。」
しかし、この国に、論じ批判する風潮は定着してくれるだろうか。この国の「就職以前の」学生たちは毎日あふれるテレビの娯楽番組やマンガや「ケータイ」に忙しく、彼らにとって文章は論理性よりもフォントの形や声の大きさが重要らしい。一方、「就職以後の」老人たちは、この国の朝から晩までの過酷な通勤と労働でくたびれ切っている。公的な社会制度が不十分で、連れ合いがいなくなった後に孤独死してゆく老人もいる。

自由に(ただし建設的に)ものを言うことは一朝一夕にできることではなく、ある程度時間をかけた訓練が必要であろう。しかし、これら二つの間、および学生時代(すなわち大学の教育)を含む期間に、そのような訓練がなされるとは思い難い。ひとつは、(たとえ論理的にであろうと)上に物言えぬ「風土」や「社風」があり、もうひとつには、論理的な議論をほとんど教えない学校教育がある。先日、ある作文教室で、「文章は論じるのではなく起こった事実を書くことだ」と教えているのを目撃した。その先生は、かなり高名な「文章家」であったが、論じる部分を避けて文章を書くのは、思考を止めろというに等しいだろう(自動記述でもしろ、というのだろうか?)。

もちろん、この国に批判する精神が発達してくれることを期待はしているが。そうすれば、より多くのことが変わるだろうと思う。あまりに感情的・感覚的な報道や、人の話を聞かずひたすら喋りまくるテレビの「学者」や「批評家」や、わけのわからない政治家の発言や、国民無視の政治談議や、また願わくば、文化的伝統と化した談合なども。
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2006年02月12日

学習せんなあ、メディア

いやはや、ねえどうですか、これ?先ごろのホリエモン騒動で、週刊誌を含むメディアはなにか教訓を学ぶかと思いきや、なかなか身についた習慣は抜けないようですねえ。

だってそうでしょう、先週などは、メディアに招かれた識者は「メディアは突っ走らずに、立ち止まって考えることです」と異口同音に言い、アナウンサーなども反省の姿勢を見せて「まったくそのとおりです」などと言っていたものですが。それが、こんどの紀子様ご懐妊の知らせに、おんなじモードで飛びついてるんですから。まったく!

テレビのワイドショー的なのや『週刊ポスト』などの週刊誌はいうにおよばず、『アエラ』までもが(と、こういう言い方が正しいかどうか分りませんがね)、「女女の次が男の確率」とか「皇太子夫妻の生きる道」とか、見ようによってかなり無神経な記事を載せてますねえ。男児を生むだけが生きる道ですかね?どうかと思いますよ、ねえ。こういうデリケートな問題は、そっと見守ってあげることができないものですかねえ。

その『アエラ』、釣り広告などを見てつい買ってしまうんですがね、このところ、「勝ち組 vs. 負け組」「30代の独身女の計画」のような特集が毎週のように続いてますが、そんな“グループ決め付けの旗振り”のような情けない特集は、アエラ副編集長である女性の企画らしいのですが、上のようなどうかと思う企画には、それに加担しないまでも、女性として反対はしないのでしょうかね。

そのうち、なんでも十把ひとからげにする、あのはやり言葉を使って「懐妊力」とか、バカなデリカシーゼロのことを言い出すメディアや作家や学者、出てきますよ、きっと。なんでも「力」つけるとアピールすると思ってるんですから。女性をなんだと思ってるんでしょうか。

いや、そういう私は、女性の味方でもなんでもない、女の地位向上を謳ってもいない、ただの通りすがりなんですがね。
posted by ろじ at 13:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本・社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月08日

メディアのライブドア報道・再論:寄らば大樹の陰

数日前に書いたライブドア事件をめぐってのメディアの報道について、いくつか考えてますが、ひと言だけつけ加えます。いわば、「日本、寄らば大樹の陰(かげ)、長いものには巻かれろ」論

ホリエモンの権力が失墜したと見るや、メディアが掌を返したような攻撃をし始めたことがテーマです。

これに関連して、ある人が毎日新聞のコラム「発信箱」を教えてくれました。
このコラムでは、前日までホリエモンをもてはやしながら検挙され「容疑者」となったと見るや怒とうの堀江たたきに走るメディアを、自らの毎日新聞をも含めて自戒の念をこめて書いています。

そのなかで、終戦時の1945年8月16日付の朝刊、1面の一部と2面を真っ白にした高杉孝二郎編集局長の話が出てきます。自らの新聞も前日まで焦土決戦をあおった揚げ句、終戦となた途端「国民も今日から転換するのだなどと、どのツラ下げて言えた義理か」という判断で、その日の紙面に終戦勅語と行政告示しか載せなかったというジャーナリストの真骨頂を語ったものです。

そういうツワモノ・ジャーナリストは、戦前の日本だけでなく、今のアメリカにもいます。権力につかず、ウォーターゲート事件で政府の不正で不当な企みを暴いたボブ・ウッドワード(Bob Woodward)やカール・バーンスタイン(Carl Bernstein)のような、地道だが卓越した批判的精神を持つ記者たちは、今も健在です。

(ちなみに、バーンスタイン氏はメディアの怖さもちゃんと自覚していて、1999年に「メディアは政府よりも強力だ。しかし、私たちはその力を無駄使いしている(The media are more powerful than our government institutions, but we are squandering that power.)」と言っています。)

そういうのに比べると日本は「強い者」「大きい物」に付くのが文化的伝統のように思います。日本のメディアは、“持てるもの”に付きたがるように思うのです。たとえば、
     権力を持てる者
     金を持つ者
     株を持つ者
     会社を持つ者
     人気のテレビ番組を持つプロデューサー
     オリンピックで勝って金メダルを持つ者
     世界記録を持つ者 などなど
(女にもてすぎる者は、どちらかというと嫌われるが、これはまた別の話である。)
これも、権威主義的な日本ゆえなのでしょう。

その一方で、“堕ちた者”、特に、かつて“持っていて”いまや堕ちた者には、きわめて過酷であるように思います。相手が持っているがゆえに「近くに付いて」いるときも、実はそいつのことが嫌いで、地に堕ちるのを待っているのかもしれないですね。

そう考えると、目をそむけたくなるような振る舞いをしているのは、メディアばかりではないように思います。会社でも、大学でも、町内会でも、上に諂(へつら)いおべっかを使う奴は、ゴロゴロいるではないですか。主婦や会社の同僚などでも、“力のあるもの”に付くために、平気で昨日まで言っていたことを覆して自己保身に走るのは掃いて捨てるほどいるでしょう。

寄らば大樹の陰、長いものには巻かれろ、名誉捨ててもコネ保て、友達捨てても金を取れ、ギッタンバッタン舟が行く。

メディアは、その構図の単なる一部だと思うのです。もちろん、メディアはその辺の町内会とは違って非常に影響力があるのですから、だからといって罪が軽くなるとは思えませんが。
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2006年02月07日

屈託がない日本の若者

街に出て、陽気に話したりため口を利いている高校生、たのしそうに携帯をいじっている学生などをみると、不思議な気分になることがある。

都会に出ると、駅前で、電車の中で、あるいはカフェの中で、そんな彼らを見ながら、ボウーッと立ち尽くすことがある。
――なんなんだろな。

こうして明るく屈託がない若者たちは、多くが何の苦労もないように見える。そこには、貧困も飢餓も、アメリカで始終目にした人種問題(偏見、抑圧、就職難など)も、戦争も、関係ないように見える。が、日本は、そんな、何の問題もない社会になったのか……。

もちろん、そうしたことが、世界で起こっていないわけではないはず。この日本でさえも、一部では、深刻な貧困や人種問題が起こっているはずだろう。非常に苦労されている方は、確かにいるはずだ。

しかし、美しい品物があふれ、どこに行っても(ある程度の金を出せば)旨いものにありつけ、新しい製品が、始終、作り出される。ほとんどの人が、高性能の電子器具を持ち歩く。世界で起きている深刻な問題も聞こえてこない。いや、そういう情報もどこかに行けば手には入るが、こちらに押し付けてくることは、決してない。これでは、まるでパラダイスのようじゃないか。

問題を感じずに、意識することもなく成長する若者――しかし、問題に気づかないということは、幸福なことなのかのう。
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2006年01月31日

ジムの若造

夕方ジムに行くと、いつもかなり混んでいる。単に混んでいるだけなら気にしないが、学校帰りの中学生だか高校生だか(日本人は両方とも若く見えて、区別がつかない)が、たむろす様に集まって、大変なにぎやかさである。

たいがいは、マットや幅広の梯子のように横に棒が渡してある用具(名前はなんと言うのだろう)の前に座って、ダラダラと学校のことや女のことを話している。五月蝿(うるさ)いだけではなく、他の利用者にジャマなこと、この上ない。

昔の青くさかった頃の自分自身を見るようなのでイヤだということもあるかもしれないが、しかし、わがままな子ども、他人のことを考えず想像力を使おうとしない若者は、大っ嫌いである。

今日は、特に、十何人かがやかましく大変な迷惑であった。しかし、ここは日本である。ジムの担当者が注意することなどは、絶対ありえない。こういう担当というのは、監視のためでなく、せいぜいがタダ利用を見つけるくらいが関の山である。それもいかにもなーなー的で気に入らない。

その無策さぶりも手伝って、ジムでストレスを発散しに行ったにもかかわらず、ずっとモヤモヤがおさまらなかった――。

ボカッ

「あ、なにすんだよぅー」
(かまわず、そう言った若造を)ボカッ

「おい、オッサン、なにすんだよおぅぅ」
「五月蝿い!」ボカッ
「いてぇ、いてぇよー」
「そんなところにたむろして、みんなが迷惑してるのが、分らんのか」ボカッ
「どこにすわろうと、かってジャねぇーかぁーよー。あんたのジムじゃあ、ねーだーろぅ」
「公共道徳もないのか、おまえは」ボカッ
「なんだよぅ、こーきょー洞くつ、ってー」
「日本語も知らんのか。天に代わって…」ボカッ
ボカッボカッボカッボカッボカッ

――いえ、できません、そんなこと。それは、私の白昼夢であった。そんなことしたら、彼らに変なオジサンと言われるだけでなく、土地の札付きになってしまう……。理性あることをしても、歳をとっているだけで変人(たしかに変わってるが)といわれかねない国なのである。
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2006年01月24日

ライブドア事件で“堕ちたもの”

ライブドアの事件で、問題の首謀者、つまり会社の幹部がテレビに映されることが多いが、どの幹部を見ても「若いな」という感が強い。もちろん37,8の若年なのだから若いのは当たり前かもしれないが、その話し方というか雰囲気がとても若く見える。

若年の風雲児といえば聞こえが良いが、どうも、一度もつまづきを経験したこともなくその道をタダひたすら突っ走ってきたという“若々しい(青々しい?)”オーラが出ている。

驚くのは、こういう若い層がIT産業や株の世界に増え始めたということでなく(いつの時代だって参入組みは若いのだ)、若年の風雲児に勝手し放題に牛耳られるほど、株のマーケットの世界の規則がしっかりしていなかったことの方である。

以前のフジテレビやTBSの株の問題の時にも感じたが、日本の株のマーケットは、「社会の暗黙の了解」というのに頼りすぎてるんではないかねえ。マーケットは、オープンマーケットなのに。どうも、そこに、閉じられた(と信じ込んでいる)「村社会」の図柄が見えてしょうがない。

今回の事件は、やや奇異だ。フランスの新聞リベラシオン紙は「日本の大企業の経営者や政治家は、ヤクザのような者の不正行為には目をつぶっても、堀江氏の米国風で礼を欠いた日和見主義は拒絶した」と批判的であるし、日本の一部の歪みだけを摘発した感があるのは、否めない。

それにしても、昨日の堀江容疑者逮捕の報道は、どこもイタダケなかった。他に映すものがないとはいえ、容疑者の乗った車をひたすら追っかける図柄は、かなりお粗末であった。堀江社長らを乗せたワゴン車が警察車両に先導されて出て行った(東京拘置所に到着した)というだけでなく、それを道々追っかけて映したからって、ニュースバリューがどれほど高まるのか。第一、公道を迷惑な話である(こういう方法は、昔から変わってないけど)。

そして、一夜明けての、テレビ週刊誌を含めたメディアのホリエモン叩き。これら同じメディアは、つい先ごろまで彼らをヒーロー扱いし、番組に出た彼を神様扱いしてたではないか。

きわめつけは、ある男性誌の「堕ちた、中身のない“ピーマン”ホリエモン」などという新聞広告である。この雑誌は先ごろまで、「君もホリエモンになれるか」などという趣旨で記事を書きまくっていたのである。

こういう事件があるたびに感じるが、地に堕ちるのは、その書かれている対象だけではない。
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2006年01月23日

偽装問題:民間確認検査機関の怪

さて、あの耐震強度偽装問題、ライブドアの事件の陰に隠れてしまい、小嶋社長もほくそえんでいるだろうか。

この問題、業界と政治家との癒着関係も含めて、いろいろ論じられているが、真空スポットのように話題にされていない点がある。

それは、3日前にも書いた民間の指定確認検査機関がちゃんと仕事をしたのか、いや、しているのかどうか、しておらず問題を見て見ぬ振りしていたとしたら、それはなぜなのかの問題である。

しばらく前、一ヶ月以上前に、民主党の長妻昭氏が、国土交通省のOB4人が民間の指定確認検査機関に天下りしていることを明らかにした。2001年以降に国交省の前身の建設省元住宅整備課長ら退職者4人が、49の民間検査機関のうち2機関に再就職し、さらに、偽装を見落とした指定確認検査機関「イーホームズ」についても、確認検査員29人のうち24人が地方自治体のOBだという。

その後、この癒着関係は、マスメディアではまったく問題視もされていないようだ。しかし、これが事実だとすると、事件発覚後、すぐ国が支援策を打ち出し(「耐震強度偽装マンションと一般の欠陥マンションの支援の違い」という、かなり無理がある議論をしながら)たのも理解できる。
参照:http://www.asahi.com/special/051118/window/051207c.html

また、自民党の武部勤幹事長が11月26日という早い時期に、北海道釧路市での講演で、「悪者探しに終始すると、マンション業界つぶれますよ、ばたばたと。不動産業界もまいってきますよ。景気がこれでおかしくなるほどの大きな問題です」などと口を滑らせたのも、なるほどと頷首できるのである。
参照:http://www.nikkei.co.jp/news/seiji/20051127AT1E2600L26112005.html

国交省OBが検査機関に天下り、民主・長妻氏が明かす
 民主党の長妻昭「次の内閣」国土交通担当は4日のフジテレビの番組で、マンションなどの耐震強度偽装問題に関連し、国土交通省のOB4人が民間の指定確認検査機関に天下りしていることを明らかにした。

 その上で、「国交省による民間検査機関の検査が非常に甘い。国にも責任はある」と述べた。

 天下りは、長妻氏の資料請求に対する同省の文書回答で判明した。それによると、2001年以降に同省の前身の建設省元住宅整備課長ら退職者4人が、49の民間検査機関のうち2機関に再就職していた。

 さらに長妻氏は番組の中で、偽装を見落とした指定確認検査機関「イーホームズ」についても、「確認検査員29人のうち24人が地方自治体のOBだ」と指摘した。
(2005年12月4日20時38分 読売新聞)
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2006年01月21日

街のかおり

パリの空気には、なにか特別なものがある。その空気は、この自由でぜいたくな街でしかほとんど知ることのないある種の気楽さを伝えている。いくばくかのあいだ、この空気を吸うやいなや、知らず知らずのうちにこの土地の習慣を身につけてしまう――あまりにも他とかけ離れたものなので、おもわず従順に従ってしまう習慣を。(フランソワ・ド・バキュラール・ダルノーFrançois de Baculard D'Arnaud『かわいい女(ひと)(La Jolie Femme)』)
それぞれの町(街)は、人間にたとえられる。独特なクセや香りがある。

古くて格式の高い雰囲気を今でも残すボストン(一部を除いて)は、さしずめ、ヨーロッパの教養高い「淑女」……。神戸はちょっと老いた旅芸人?ドイツのドレスデンは、まちがいなく、人見知りで遠慮がちだが物知りの中年美女。

ニューヨークは、一人の人間にたとえるには、ちと大きすぎる。華やかさが第一のタイムズ・スクエアあたりは好奇心とバイタリティーのあふれた21,2の女子大生か。華やかさの中にも落ち着きと高貴さを求める5番街あたりは、35歳くらいのご婦人?しかし、ヴィレッジあたりは、新進気鋭の間違いを恐れないアーティスト?でも、ニューヨークの中でも古いくて人種の多様性の活気にあふれるクイーンズは?いまや新開発街となったハーレム地区は?ニューヨークは家族のようなものか。

そんなことを考えながら新宿を歩いていた。この街には、なぜか情緒がない。香りがない……。
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2006年01月20日

客をなめた殿様銀行

オレのように、銀行口座を給料振込みと公共料金の引落としだけに使っている客を、銀行では「ゴミ」と呼んでいるのだそうです。

オレが口座を持っている銀行は最近U○Jと合併した○菱銀行。名前が、また不可思議なものに変わりましたが、まあそれはいいますまい。ただ、もとの銀行によって、同じ「○菱東京U○J銀行」でも、○菱系の店舗とU○J系の店舗とがあるのです。

さて、今日の朝、あるところのATMに並びました。ATMの外には、4人ほど人が待っています。みな急いでいる様で、たえず中を伺っています。中には女性が2人。しかし、なかなか出て来ません。

ガラス越しによく見ると、そこで機械の前に立つくだんの女性は、金をおろした後も何かしている様子。やがて機械の上に置いたカバンのチャックを開け、中から小さなパースを。そして、そこからブラシらしきものが――。

あのなぁ……。非常に急いでいましたので、こういうお姫サマにかまってる暇も叱りつけている暇もありません。しかたなく、大通りを挟んだ反対側の「○菱東京U○J銀行」へ。そこには、以前はそんな○菱系の銀行はなかったのですから、それはU○J銀行が変わったものに違いありません。まあ、系統が違っても、まさか昼間に手数料は取られますまい――。

しかし、ATMにキャッシュカードを入れ暗証番号を押しても、何度やっても「もう一度番号確認してください」のエラーメッセージです。「○菱東京U○J銀行」では○菱銀行のカードが無料で使えるはずだと、ATMのわきには説明書が付いています。

業を煮やして、がらんとした行内に突っ立っていた係員に、ことの次第を話して、○菱銀行のカードは使えないのか訊くと、係員は
「○菱さんですか?ええーっと……」
と言いながら、マニュアルのようなものを出して調べ始めました。○菱銀行は、つい先ごろ自分の銀行と合併した銀行です。なにを調べるんでしょうか――。

U○J銀行のこの無能な係員は、あげくに、「道の反対側にATMがありますので」と言います。この銀行にいる限り、一生、金はおろせないと確信し、道の反対側、つまり最初に入ろうとしたところに引き返し、金をおろしました。

今回の合併は、コトゴトクこんな感じであるように思う(突然、怒りの「である調」)。以前、○菱銀行に金をおろしに行ったら、IC付きのカードに切り替えろと勧誘がうるさかった。ちょうど、カード詐欺が横行した頃であった。

しかたなく話を聞いてみると、これが、まるでお話にならなかった。制限だらけなのである。IC付きのカードでは、コンビニで金がおろせない。合併して○菱東京U○J銀行になった後は、U○J系の店舗ではおろせない……、その他いくつかの制限。つまり、時期尚早、無理やりIC付きカードを発行しようとして、システムが整っていないのに、強行しようとしているのが見え見えなのだ。

しかも、あいかわらず手数料は、バカ高く、ヘタをすると週末はたいへんな額の手数料が取られる。なぜそんな高い手数料を取るのかと訊けば、きまって「規則ですから」と答える。こっちは、なぜそんな規則があるのかが知りたいのだ。

客をなめているのだ。都銀の給料は、この不景気中でもかなり良いとのことである。フザケタ護送船団方式のせいである。

うううー、怒りがおさまらん。
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2006年01月18日

耐震偽装の構造

小嶋社長の喚問で、その手のひらを返したようなダンマリぶりと政治家との繋がりばかりが、問題になっているが、これはもともと耐震強度偽装の問題だった。

さらに問題を正確に言うと、耐震強度を偽装することを可能にした業界の構造も問題になっているはずだ。それがスッポリ抜け落ちてしまった。(ついでにいえば、施工での偽装は、あいかわらず社会問題にされず、いまやこの国の文化的伝統になってしまった。)

建築主(この場合、ヒューザー)―※(発注)→ 設計者(建設会社)
                                |
                              (下請け)
                                ↓
                            設計事務所や建築士
                            (たとえば、姉歯氏)

設計者(建設会社)は意匠設計・設備設計・構造設計などを、下請けの手を借りておこなう。※の発注の結果、でてきた設計に仮に問題があっても、チェックする方法が2つある。まず、設計図を「建築確認」し、さらに、「建設工事中の確認」がされることになっている。

建築確認」は、(建築主事のいる)自治体と民間の検査機関(たとえば、イーホームズ)でなされる。民間の検査制度は平成11年度から行われた。民間の検査機関数は、平成12年の27社から平成17年には122社と4倍以上になっている。これほど多くなると、サービス競争が激しくなり問題がおきてくる。たとえば、検査に本来20日かかるところを2週間ほどでしてしまうという。(11月25日、NHK『あすを読む』「耐震強度偽装の構図」)

建設工事中の確認」では、設計どおりに工事が行われているかどうかが、自治体か民間検査機関による中間検査、また、ある規模以上の場合は一級建築士による工事監理(監督管理のこと、しかし、なんでこんな言葉を使うのかね)で確認される。

民間が入るようになったのは、かつて建築確認や完了検査が自治体だけで行われていた頃には、あまりに件数が多くて手が回らなかったからである。平成10年に年100万件もあった検査は、自治体の建築主事わずか1700人で行われていた。その時の検査完了率は38%で十分な検査さえできなかったが、翌年からの民間導入後、平成16年には、73%となった(NHK「耐震強度偽装の構図」)。民間の力の導入は、どうしても必要だったのである。

民間を必要とする構造。これに加えて、現在のように、民間の検査結果を国や自治体が再チェックもせず、実質的に検査を民間に「丸投げ」の状態が続けば、かりに民間が偽装をしてもそれはかなりの割合で野放しになることになる。

これは「検査の構造」の問題であり、さしあたり、ヒューザー社がどの政治家と癒着していたかとは独立の問題だろう。それが、まるで議論されていないように思う。
(いわば建築士のプロと市民による http://homepage2.nifty.com/kekkanzenkokunet/ のような動きが出ているのは救いではあるが。)
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2006年01月11日

ノン・フェミコードの伝統

寝正月のあいだ、斉藤美奈子氏の『物は言いよう』をパラパラ読んでいた。あいかわらず歯に衣着せぬ痛快な語り口が、小気味よい。

帯の副題は「思わぬセクハラを防ぐ60の心得」。そう、これは、日本社会に根強い「セクハラ」の風潮を指摘した本なのである。

そのキーワードはフェミ・コード(Femi Code)。略してFC。これは、言動がセクハラや性差別にならないかどうかを検討するための基準、と定義されている。別に社会的な倫理基準になってはいないが(セクハラが社会的倫理基準に取り込まれていないのは、いや、過剰な形で「倫理」の装いをまとい始めたのは、日本の悲劇だが)、「ドレス・コード」があるシチューエーションにふさわしい衣類に関するルールであるごとく、社会的に共有されるべきルールのことである。

「ドレス・コード」はどこかに書かれているわけではない。しかし、高級レストランにランニングにサンダル履きで行けばやんわりと入店を断られるごとく、自分の服は自分で決めるとばかり、お見合いに水着で行けば社会的ルールを知らないと“イエローカード”をもらうごとく、また、ひと様の葬式にパジャマを着て行けば「アウト!」と追い出されるごとく、それは社会の、あるいは社交上の、重要なルールである。

それと同じく、社会に生きるわれわれはセクハラや性差別について「コード」を持つべきだという、しごくまっとうな発想に、このFCは基づいている。

多くの日本社会の“つわもの達”の言動(失言・暴言・妄言・放言)が、まな板の上に載せられている。まず、20年ほど前(1984年)の、三浦朱門氏の
女性を強姦するのは、紳士として恥ずべきことだが、女性を強姦する体力がないのは、男として恥ずべきことである
という、ランニング雑誌『シティランナー』誌上での発言がある。驚くのは、三浦氏が小説家という文化人であり、そしてなによりも、当時の文化庁長官であったことだ。どういう「文化」やねん。

しかし、この発言が出た当時、悲しいことだがそれが別にこの日本社会で突出した発言ではない、と思った記憶がある。事実、その後似たような発言が、“文化人”のあいだで繰り返されてきた。ご本人はユーモアのつもりでおっしゃるこうした発言が、FCにひっかっかることは言うまでもない。これこそ、日本の文化人の系譜なのかもしれない。NFCの伝統。KFCではない。アメリカンフットボールNFLのナショナル・フットボール・コンフェレンスでもない、National Film Centerの略でもない。ノンFC、すなわちFCを否定する文化。

他人のアイデアを自分流に引用なさるのがお好きな石原都知事も、このFCの伝統に属するようで、その有名な「ババァ発言」が取り上げられている。引用された当の東大教授様のインタビュー記事を読んだことがあるが、かなり曲解されたようですな。ということは、石原都知事の御発言は、引用されたアイデアに触発されたのではなく、あらかじめ言いたいことが御自分の中にあったということになりましょう。

以前から思っているのだが、これだけ西洋化が進んだ日本、こういう点では決して西洋化しないのは、不思議でならない。
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2006年01月04日

泣きたがるニッポン人――「壁」好きの日本人?

テレビ番組をいろいろのぞいていて、気が付いたことがもう一つある。泣かせる番組が多いということ。

前に書いたように若い芸人を使った番組でも、困難を乗り越え、苦しみを分かち合い・・・と、とりとめもない罰ゲーム風やらせも含めて、泣かせるためのセッティングと語りが目白押しだった。そういった「お話」をスタジオでビデオで観て、感動し泣いているタレントが大写しにされる。

ひねくれ者のオレは、「一億総感動」「一億総涙」か・・・。なんじゃい、こりゃ?と思って観ていた。

そのことに関連して、昨日3日の朝日新聞に、実にタイムリーなコラムが載っていた。『鑑賞していますか』というシリーズコラムで、第1回は「泣きたがるニッポン人」。映画を初めとして、ヒットするものを見てみると、日本人が泣きたがっているのが分るというのだ。

たしかに、『世界の中で愛を叫ぶ』『いま、会いにゆきます』『私の頭の中の消しゴム』など、どれもこれも泣かせ映画のヒットが続いた。しかも、おもしろいのは、昔の「感動巨編」と違って、
最近の特徴は、病気などを「壁」にした純愛物語が、典型的な感動生産装置となっていることだ
という。病気だけではなく、年齢や容貌など劣位にある方が、不利な条件という「壁」を乗り越えて告白する(たとえば『電車男』)、そのプロセスが好まれるという。そこには、泣くことがポジティブなこととして受け入れられつつあるという背景もあるという。ある学生たちは、共同研究で、
男女とも映画で涙を見せることにより。自分の弱さを見せつけ聖性を高めようする、互いに弱さ・純粋さを共に有しコミュニケーションを図っている
と推測する。泣くことが、ある種の純粋さを示すことになり、泣く自分に感動する自分もストーリーの一部になっているのかもしれない。

正月に限らず、告白系ドラマは多いようだ。「告白」も大事なツールとなり、感動ストーリーの必須アイテムのようだが、
最近の若者たちは、異性と交際を始めるにも「告白」という儀式を必要としているという。デートを重ねるうちに、自然に交際に至るのではなく、あえて「契約」に合意しなくてはならなくなったというのだ。
そこには、人間関係に臆病で、自分で傷つきたくない若者たちがいるのだろう

しかし、それと簡単に感動することとは、また別のことである。なぜ、これほどに簡単に感動するのだろう?それについて、このエッセーは、ある研究者の興味深い指摘をひいている。
感動は、感情が未知の領域に達し、閾値を越えてこそ起きる
ということは、「未知のこと」が多くて簡単に閾値を越えてしまうと、簡単に感動するということになる。感動しやすいのは、日本人が、この世界での経験が少なくなったということを意味するのかもなあ。

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2006年01月03日

正月難民と 日本のテレビ世界

正月3日目。
唯一開いていたマーケットを発見し、弁当を買おうと入る。弁当売り場で、残り一つとなっていたのを買おうと前に進んだ瞬間――、ホームレス風の男が手を伸ばし、わが昼飯の希望を奪い去ってしまった。

昼飯をホームレスに奪われたオレは、街をさまよい歩き、駅前あたりの開いている中華屋でも探すが、なかなかない。30分探してもないので、仕方なく、しょぼいラーメン屋に入る。その後帰宅。家の近くで、開いている中華屋を発見……。
ああぁ、正月昼飯難民。

ごろ寝してテレビを見ているが、驚くほど、どれも似たりよったりである。そもそも出演者が、どの番組も、若いタレントだか漫才師(漫才はやらないが?)だか芸人(芸があるのか?)のようなのばかりだ。しかも、まるで金太郎飴のように、ついさっき別の番組で出ていたのと同じ芸人が、似たようなことをしている。

大晦日の深夜、テレビ朝日の「朝まで生テレビ」の討論会を見ていたが、何人かの政治家と知識人が、イラク戦争について、イラクと(アルカイダの)テロリストの関係をいまだに強調しているのには、驚いた。

イラク侵攻に当たってブッシュ政府がその根拠としていた、イラクとアルカイダの関係がなかったというのは、もう2年も前からアメリカのメディアと知識人の間では、常識になっている。

根拠がダメになるたびに、ブッシュ大統領は別の論理を出したが、ブッシュ政府が主張していたイラクの「大量殺人兵器」でさえ、2年以上前から、やはりないだろうと指摘され、戦争の正当性が疑問視されていた。それは、このブログにも何回か書いた。
http://dokugo.seesaa.net/article/1812382.html(2003年06月11日 Current Middle East)
http://dokugo.seesaa.net/article/1812412.html(2003年07月10日 証拠がなかった戦争)
http://dokugo.seesaa.net/article/1812417.html(2003年07月13日 危機管理)

日本の知識人って、そんなものなのかねぇ。

正月テレビ番組にも飽きたので、DVD屋さんでERを借りてきた。第10シーズンのエピソード1と2。ある医師が国境なき医師団(?)の一員として行ったアフリカ、コンゴで土地のギャング(?)に捕虜となる。捕虜たちが、ひとりひとり殺されていくなか、それまで神も信じていなかった医師は、ひざまづいて神に祈っていた……。命があることの重みと、それを支える周りのシビアな現実――。テレビ観てると、ほんとに、日本は囲われた世界だと思うよ。
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