2010年05月15日

竹本住大夫の世界(文楽「野崎村の段」)

いまや唯一の贅沢、竹本住大夫の浄瑠璃を聴きに、文楽に行ってきた(第171回文楽公演、国立劇場)。第2部で、出し物は『新版歌祭文(うたざいもん)』から「野崎村の段」「油屋の段」「蔵場の段」、そして祝いもの(景事)の『団子売』。

お目当ては、もちろん、「野崎村の段」。若手を育てるための企画だそうで、主役の「お染」は桐竹紋壽、「久松」は豊松清十郎と中堅が遣うが、娘「おみつ」に吉田簑助、「久三の小助」に桐竹勘十郎の名人形遣いを配す。義太夫のキリに竹本綱大夫、そして竹本住大夫。

85歳になる竹本住大夫の義太夫を聴けるのはこれが最後、という思いで来る客は多いだろう。当代随一と言われる語りだ。

義太夫が竹本住大夫に代わり、語り始めるや、「住大夫の世界」が舞台を、劇場を支配し始める。人形も新たな命を身につける。おみつの父親「久作」、病床の母を語りには「怒り」「情け」「あせり」「娘への愛」、つまり、あらゆる「人間の情」が現われて、ああ情というのはこういうものなんだなあ、と心にしみる。

こんな「人間の情」の表現に触れるのは、実に久しぶりだ。竹本住大夫の人間としての経験の豊かさが見えるように思う(もちろん、いまも止むことない住大夫の精進のお蔭だが)。俳優以上の説得力がある。

しかし、幕の最後に「お染」「久松」が去っていく場面での住大夫の語りは、三味線に埋もれてしまって、声が通らない。住大夫は、もしかしたら今年限りで引退を……と心配になる場面だった。数日前に観に行った知人に、そう言うと、やはり同じだったようで、「ただ、公演も始まったばかりだったので、先々のことを考えて抑えているんじゃなかろうかと思った」という。そうであることを祈る。
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2010年02月20日

日本の演劇の特徴?

 昨日の続き。観劇後、一緒に観た美女と、居酒屋で日本酒を飲み交しながら感想を言い合う。

 話しているうちに話題が広がり、フランスの(コメディー・フランセーズなどの)古典劇と比べると、日本の演劇は、古典芸能もふくめて、観客の生活と一線が引かれている、何かそこにあるのではないか、という考えを述べてみた。パリの古典劇の殿堂コメディー・フランセーズで、モリエール劇を観に来た子どもたちがゲラゲラ笑っているのは一つのカルチャーショックである。それは、彼らの日常生活と劇の中身とのあいだに断絶がないためではないだろうか。たしかに、『シラノ・ド・ベルジュラック』はどこにでもある話ではないが、一つ一つの要素はどこかで起こってもいい話である。『シラノ・ド・ベルジュラック』は喜劇であるが、その意味で空想劇ではない。

 そんなことを話しながら、文楽・歌舞伎・能の古典芸能はもちろんのこと、もしかしたら日本の演劇舞台というのは、なにか非日常的なものに集中しているのではないか、と思え始めた。そこで、「日本の演劇は、(ハレとケの)「ハレ」(非日常的なもの)の舞台なんじゃないかと思うんですよね。日本の翻訳・翻案劇もそうだと思います。チェホフの『桜の園』は流行る(かつて流行った)かもしれないけど、あれは日本の話ではないでしょう」と言った。

 そしたら、美女はさかんに感じ入ったらしく、うまいことを言うと褒めてくれた。そして、「そういえば、わたしはハレの舞台がだーい好きなのね。蜷川シェイクスピアなんて大好キ」と、興奮しながら言った。

 シェイクスピアの『ハムレット』や『マクベス』は、たしかにこの世のお話しとは言い難いが、発表当時の社会背景を考えれば、イギリスの社会をなんらかの強い形で反映しているのかもしれない。いや、そう単純なことではないだろう――。すばらしい文楽の夜の余韻は長く続いて行った……。
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2010年02月19日

文楽2月公演・曽根崎心中

2月文楽公演・曽根崎心中

 忙しい忙しいと言いながら、今月の第一週末、東京での2月文楽公演を観に行ってきた。国立劇場、出し物は『曽根崎心中』。日本でできる至福である。
「立ち迷ふ、浮名を余所にもらさじと、包む心の内本町、焦がるゝ胸の平野屋に春を重ねし雛男……」と始まり、お初が
   「――わしの心を知りもせず、どうしたことで窶(やつ)れた
   とは、あんまり惨(むご)い徳様」
と、じれた眼で恨む「生玉社前の段」から、最後の、お初が徳兵衛の脇差しに刺された瞬間、ビクリと体を震わせて息絶える「天神森の段」まで、人形というものがこれほど生々しく、細やかな感情を人間よりも雄弁にかたるのを目の当たりにして、しばらく感動がおさまらなかった。

 心中にやって来た森で人玉が漂うのを見て怖がるお初。死ぬ直前となって、お初はこの世に残す両親を気遣い動揺を舞うように表現するが、体のこなしは決して不自然ではなく、その動きは当然であるように見える。さあいざとなって、ひるんだ風情の徳兵衛に対し、お初が二人の体をつないだ帯を引っぱる、そのかすかに傾いた体に表れた力、意志、気力、覚悟。そして、刺される直前に、両手を合わすお初の顔は、両目を閉じながらも、虚脱、よろこび、絶望、意志、悲しみすべてを表していた。こんなものを目にできるのは、幸運と言うほかない。

 今回、お初と徳兵衛は、現在おそらく最高の組み合わせと言える、吉田簑助と桐竹勘十郎。桐竹勘十郎の徳兵衛も、地味であったが、もちろん良かった。中段の「天満屋の段」は、大夫に豊竹嶋大夫。とてもよろしい(他との差がありすぎたのが悲しかったが)。さすが、いま切(きり)を任せられる四人のうちの一人。

 開始の6時半から2時間があっという間であった(しかし、開始6時半、終了8時半というのはフランスではありえんな。フランスは、劇は8時半からが普通だ)。「天満屋の段」の最後、死ぬ覚悟を決めた二人が抱き合って、大夫は、
   顔を見合わせ「アゝ嬉し」と死に行く身を悦びし、哀れさ辛さ
   浅ましさ、後に火打ちの石の火の、命の末こそ
「哀れさ辛さ浅ましさ」というくだりを発見。けっこう突き放してるんだな、と驚いた。

 観劇後、一緒に観た美女と、酒を飲みながら感想を話し合った。
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2009年05月14日

映画『The Hours』

 TVで映画『The Hours』をやっていた。

 むかし観て感動したのを覚えてるが、この映画の意味や示唆するところは深いと思う。「自己アイデンティテー」、「自分の幸福」、「幸福のための妥協」ということから、「自分のアイデンティテーと、(自分を生かしてくれる)まわりの環境(人々)との関係」、「本当の罪とは(誰にとってのことか)」、「過去に生かされること」、「自分の中に蓄積された時間(過去)の意味」などなど、いろいろ考えるべきことがあると思う。インスピレーショナルな映画だということで、原作もシナリオも良いということになるのだろう。

 この繊細な監督はどんな人だろうかと、ちょっと調べてみたら、舞台を中心に活躍する監督なのだな('Billy Elliot'――邦題『リトル・ダンサー』――のスティーブン・ダルドリー)。セリフの扱いとか、心理的なものの余韻の生かし方とか、舞台で磨かれた感性なのだろうか。(アカデミー主演女優賞賞がジュリアン・ムーアやメリル・ストリープでなくて、ニコール・キッドマンに与えられたのも納得できないが。それは、むしろ、アカデミー賞のレベルを物語るか。)

 さて、この映画、邦題を『めぐりあう時間たち』という。このタイトルだけでも、映画の言わんとすることをかなり削ぎ落としているように思うが、日本で劇場公開時のそのキャッチ・コピーが、
たくさんの愛と驚きと時間たち、そして感動。人生はいつもミステリーに満ちている
である。

 あ然。なんというふざけたようにお手軽な解釈、小児的な謳い文句。まったく、日本のオコチャマ文化は知っていたが、真摯な作品に対してここまで敬意も欠けてるとは思わなんだ……。レベル低すぎる。
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2009年03月01日

ジプシー・サーカス

ジプシー・サーカス1

(過去日記)
 締め切りの仕事に追われてどうしようもないのだが、週に一度は息抜きを、ということで、ブーローニュの森でこの冬ずっとやっているサーカスを見てきた。

 「冬のサーカス」を観に行って以来、フランスの渋いサーカスづいてしまった。(「冬のサーカス」見物は下のページ参照。新しい写真もアップしました。)
http://dokugo.seesaa.net/article/112631622.html 
こちらは「ジプシー・サーカス」というものらしい。しかも、これ、国立サーカスなのだ。つまり、このサーカス屋さんは「国家公務員」なのだろうか。11月から4月まで、ほぼ半年間やっているそうな。普段は南の方にいるらしい。「ジプシー・サーカス」という言葉に引かれていってみる事にした。
http://www.alexis-gruss.com/ 

 ブーローニュの森に巨大なテントが張ってあった。入り口の扉をくぐると、拍子抜けするほど素朴な感じのホールがある。子どもたちが、駆け回ったり、綿アメを買ったりしているのどかな雰囲気。サーカスをやるテントの中に入ると、円形の広場を真ん中に、いかにも田舎風な味のある「サーカス小屋」が待っていた。
ジプシー・サーカス2

 「冬のサーカス」に比べると、どの芸も単純で素朴で、華やかさにかける。客も、広場に近い前の方の列を除いて、ガラガラ。こじんまりした生演奏バンドが、イキのいいジプシー音楽を連ねる。空中ブランコはないが、可愛らしいお嬢さんが綱渡りの芸をする。トラは出ないが、馬のみごとな曲芸がある(何頭いるんだと思うくらい、馬が多かった。解説によると、このサーカスは60頭の馬を持ってるんだとか)。象が出てきて、簡単な曲芸をする。たとえば、シーソーの端に調教師を立たせたまま、シーソーの反対側を足で踏んで、反動で調教師が空中に上がったのを背中で受ける。シーソーの方にトコトコ歩いてきて踏む前に、左足を、「ホレェ、この脚で、踏むからな〜」と言うように、持ち上げてみせるのが可笑しい。

 素朴で手作りの芸を観ていて、中原中也の「サーカスの歌」の一節
ゆあーん、ゆよーん、ゆぁゆよーん
を思い出した。

 派手さはないが、産業化されていない見世物が気に入った。最後に団員の紹介があったが、馬の調教をした団長さんと奥さん以外の、8人の若者たちは、皆さんご家族だそうです。あれま、家族サーカスだったんですね。ますます気に入りました。

ブーローニュの森の春1
 サーカスがはねて、外に出ると、目の前の湖の周りに多くの人が出て、日向ぼっこをしていた。お婆さんたちはベンチに座って嬉しそうだ。おじいさんたちが、ラジコン・ヨットのレースに夢中になっている。そのわきで、子どもたちも自分のヨットに興じていた。
 ――やっと、みなが待っていた春になったのだ。
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2009年01月10日

冬のサーカス

Cirque d'hiver2
 昨夜は、パリに古くからあるサーカス「冬のサーカス(Cirque d'hiver)」を覗いて来た。1800年代中ごろに始まり、あの画家ロートレックやスーラが足しげく通い、絵の題材にしたサーカスである。

Cirque d'hiver1 トラも空中ブランコもジャグラーも手品も力持ちも、そしてピエロも、サーカスの出し物が全て一通りそろっていた。どれもビックリするほどスゴイというわけではないけれど、イキな生のバンドに合わせて、オシャレに進行。

 出し物が終わって出口へと向かう通路が、サーカスの楽屋を通ったり、たどりついた最後のホールでサンドイッチとワインが振る舞われたりと――、こまやかな心遣いがとても嬉しい。「楽しかった」だけでなく、「どうもありがとう」と言いたくなる見世物だった。

 子どもに帰るのは、いつでも楽しい。
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2009年01月06日

イギリス観劇旅行(下)

 今日、パリは、ことのほか寒かった。この冬一番の寒さではなかろうか。野菜を買いに行ったら、軒下に出ていたキノコが凍っていた(鍋にして喰っちまったんだけど)。明日は、マイナス8度になるそうだ。

 昨日は、イギリス旅行について、メモにしても、深夜までかけて詳しく書きすぎた(ほとんど誰も読んでおらんのに馬鹿だ)。今回は、それ2日目以後を簡単に。

 さて、翌朝、ストラットフォード・アプオン・エィヴォンから朝一番の7時半のロンドン行き列車に乗った。着いたのは10時すぎ。地下鉄を乗り継いで、『ハムレット』がかかっているコベント・ガーデンのノヴェロ劇場(Novello Theatre)まで走る。着いたのは10時半近くだったろうか。当日チケットも売り切れたものと、諦めていたが、なんと何枚か残っていて、しかも、奇跡的に一階の良い席があった。「他の席は視野が限定されています」と言われれば、大枚はたいても買うしかなかった。

 買う時、「ただ、ハムレットをやるDavid Tennantは、腰痛があって出るかどうか判りません」と言われた。どうやら、彼がお目当ての客が多いので、チケット入手が難しいようだ。後でプログラムを読んだら、彼はTV番組の『Dr. Who』というシリーズ物の主役で、イギリスで大いに人気があるらしい。「追っかけ」が多いのだろう。

 ウキウキ気分のまま、鼻歌を歌いながらホテルヘ行き、チェックイン。昼飯を食べてしばらく休んだ後、夜の公演までの時間はナショナル・ギャラリーに行くことにする。良い美術館である。各国の「ビッグ・ネーム」「有名どころ」の良い絵を濃密に何枚も体験でき、しかも入場料がタダというのに、大英帝国の懐の深さ、鷹揚さを感じないわけにはいかない(不遜さもあるが)。

 『ハムレット』の夜。会場は完全に埋まっていた。女性が多い。幕が開く前に、関係者らしき女性が出てき、深刻な顔をしてアナウンスした。
「……terrifying news(恐ろしい/驚くお知らせ)があります。今日のハムレットの役は……David Tennantがやります」。
その瞬間、会場は割れんばかりの拍手と歓声。おば様方は大喜び。隣にいた女性は、こちらを見て大きな口をあけて悦んでいた。Tennantがどれだけ期待されているのかがわかった。

 幕が開くと、実にいい緊張感が走った。すぐに、これは良い演劇だと感じられた。やがて、ハムレットが出てきて独白をする――その瞬間、これは独特なオーラを感じさせる存在感のある役者であると思った。セリフはしっかりしているし、感情の陰影のある表現も、正気と狂気の転換の流れも良いと思う。単なるTV番組の人気役者ではなさそうである。

 しかも、どの役者も上手い。ストラットフォード・アプオン・エィヴォンのRSCと比較すると、大人と子ども。1軍と2軍である。ハムレットの叔父クローディアス役に、あの『スター・トレック』で有名なパトッリック・スチュアートだが、ちゃんと舞台を重ねているからだろう、安定して上手いものである。母親のガートルード役のPenny Downeも「ハイクラスの王妃」から「困惑・混乱・失意の母親」へと移行する役柄を説得力強く演じていたと思う。オフィーリア役のMariah Galeも、誠実で安定した恋人から狂気の娘への変化を熱演。しかし、この夜の最高の掘り出し物は、Oliver Ford Daviesのポローニアス。存在感、巧みさ、リズム、軽さどれをとってもピカイチだと思った。

 充実した夜だった。あのまま帰っていたら、RSCのイメージは悪いままだったろう。運にも恵まれたが。良い気分でパブで一杯やって、帰る。

 翌朝は、残った時間、テート・ブリテン美術館でやっている『フランシス・ベーコン』展を観に行った。フランシス・ベーコンは決して心地よい絵を描かないが、哲学的な意味で興味のある画家である。この画家の対象は、この限られた世界(物理的世界)に生きる、限られた人間(動物に連なる人間)のあり方だ。physical(物理的・肉体的)なものに縛られ、超現実なものではないphysical(物質的)な社会に
いる人間がどのようなものであり、それをどう描くか――それを、カンバスの中での実験で見つけようと努力しているように見える。会場の解説では、それに、彼が同性愛者であり、また好んで描いた恋人の中に(同性愛者であることからくる?)人間の不安定さ、もろさ、不安を見て取ったことが関係しているように説明していた。とても有意義な展覧会だった。

(今回、イギリス人の列車での振舞いや、展覧会会場で平気で悠然と人前に割り込んでくる態度などを見て特に強く感じたのだが、彼らには傾向として、どうもある種の鼻持ちならない不遜さ(arrogance)があるように思う。旧帝国の不遜さなのか強いポンドに支えられて来た経済ゆえのごう慢さなのか分らないが、フランスから来て見るとなにか特殊なモノを感じる。機会があれば書いてみたい。)

 テート・ブリテン美術館からテート現代美術館は、テムズ川をはさんで離れているのだが、そこを定期ボートが繋いでいる。展覧会会場を出た後、それに乗ってプチ・テムズ川観光(議事堂やロンドン・アイが見られる)をして後、パリへ戻った。
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2009年01月05日

イギリス観劇旅行(上)

 2日から昨日まで、観劇をかねてイギリスに行ってきた。このポンド安は、身銭や日ごろの食費を削っても利用しない手はない。

 2日は、シェークスピアの生誕地ストラットフォード・アプオン・エィヴォン(Stratford-upon-Avon 以下SUA)に、ロイヤル・シェークスピア・カンパニーの『ロミオとジュリエット』を観に行った。初めてのSUAである。
  「シェークスピアは、ストラットフォード・アプオン・エィヴォン
  で生まれました」
中学校の英語の教科書で最初にその名を聞いて以来、一度は訪れてみたいと思っていたところである。もちろん、シェークスピアの生家も訪れてみたい。

 パリを朝に発ち、ロンドン経由で、午後、列車でSUAに入った。列車の窓を通して初めて眼にしたSUAは、しかし、いくつか工場も並んで、たんなる地方の産業都市のようで、ちょっとがっかりした。SUAの観光局で聞くと、シェークスピアの生家は4時で入館は閉まると言う。急いでホテルに行き、荷物をおいてから駆けつけると、最後のツアーに間に合った。ハーブや花が植えられた大きな庭をしたがえた、こじんまりした家である。小さな各部屋に行くと、そこで当時の格好をしたガイドが、シェークスピアやその時代とのかかわりを説明してくれる。

 生家を出て、暗くなり始めた街を歩く。木としっくい作りのような古い建物もあるが、だいたいは新しく造り直され、商店街のようになっている。シェークスピアの墓もあるという、街外れのトリニティー教会に行ってみたが、暗くてほとんど何も見えなかった。シェークスピアの墓も金をとって見せる仕組みになっているようだ。そこから街へ戻り、 The Garrick Innという1594年に建てられたパブで一杯やる。現在営業しているパブで最古のものなのだそうだ。確かに古そうだ。飯もビールも格別ということはないが、ウェイトレスのお嬢さんが、とても気さくで親切だった。

 その後、川沿いの The Courtyard Theatre へ(本来のSwan Theatreは改修中)。シェークスピアの本場でロイヤル・シェークスピア・カンパニーの劇を観るのをずっと楽しみにしていたが、しかし、この『ロミオとジュリエット』は期待はずれだった。舞台の設定は現代(役者は背広なぞを着ている)で、それ自体はおもしろい。この芝居は、もちろんロミオもジュリエットも若い役者を使うのだが、特にジュリエット役の役者(黒人)がイタダケなかった。声はもちろん通るが、感情もないし「捧読み」が多すぎるように感じられた。たとえば、兄が殺されたことを知らされ驚く場面。「Oh, God」と嘆くのだが、告げられて、条件反射のようにすかさず振り向いて、平板で驚きもないような「オー、ゴッド」。容姿も良く、美しい声をしてるのに残念。年のいった脇役も何人かは技術的に上手い役者がいるとも思ったが、残念ながら、平板で感動のない演技だったと思う。演出家がイケないのだと思う。

 劇が終わって、長く拍手をせずすぐ席を立つ観客もいたようだ。ところで、後ろにいた若い娘たちの一団、観劇の最中に、スナック菓子の袋を始終カサカサさせたり、アイスクリームを音を立てながら食うのには驚いた。映画鑑賞といった雰囲気なのである。

 消化不良のままホテルへ。ロイヤル・シェークスピア・カンパニー(RSC)がこんなものではない、と思いたいが――。その時、明日のロンドンでのRSCの『ハムレット』公演の当日チケットを朝早くに買いに行ってはどうか、と思い始めた。こんなのでは、あきらめきれない。ところが、この『ハムレット』公演、最初から行きたいとチケットを狙っていて、発売と同時にパリから電話で購入を図ったのだが、発売からたった2時間で売れきれたという超人気の代物。とても良いもののようだ。当日チケットが手に入るとも思えない……。しかも、ロンドンまで、少なくとも2時間半はかかる。

 しかし、ロンドンっ子にそんなに人気なら、ダメ元でやってみる価値はあるだろう。そう腹を決めると、早めにベッドに入った。
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2008年12月26日

『シラノ・ド・ベルジュラック』のように

 クリスマスの夜、コメディー・フランセーズの『シラノ・ド・ベルジュラック』を観てきた。今回は2度目なので、前回よりもはるかに良く解った。しかし、なんと複雑でしかもよくできた話だろう。人間の浅はかさとそこに皮肉のように現れる人間の深い真理、そして人間の心の純粋さがそれを支えている。

 美しい娘ロクサンは、若くハンサムなクリスチャンの「外観」に惚れる。クリスチャンの代わりにシラノが情にあふれる手紙を書き続けるとロクサンの気持ちは変わり、その「手紙の主」の「本当の心」を愛するようになる。ロクサンはクリスチャンの(手紙に表現された)「内面」を愛し始めるわけだが、それを表したのはクリスチャンでなく醜いシラノだ。クリスチャンの「内面」を愛することは、(知らずに)シラノを愛することに等しい。クリスチャンの方は、自分の「内面」が愛されれば、それは自分が愛されていることにならないことに気づく。ロクサンと一緒にいれば、自分の「内面」に嫉妬し、「外観」と「内面」の葛藤を抱えて生きていかなければならない。

 シラノは自分の文章でロクサンの心を勝ち得たことに満足するが、いま本当の事実を言っても、シラノの醜い外観がそのまま受け入れられることはないだろうと信じ、またロクサンの「幸せ」を壊すのを躊躇する……。

 ただし、納得いかない作りではある。ロクサンのクリスチャンの「外観」への恋心、それは彼女のしごく浅はかな人間性を示すだろう。自分でも、後に、それは「一種の浮気心だった」と告白する。「中味」のないクリスチャンといても気づかないのもどうかと思うが、「手紙の主」がシラノだとわかった後も、ロクサンの反応はとても皮相的なものに見える。そんな表面的な女を、これだけの詩情と慧眼と気概を持ったシラノが愛するのだろうか――かなり理解に苦しむが、そこは、劇の作り方次第なのか。

 シラノが、最後のセリフ「(全てが奪われても残るのは)オレの羽飾り(暗喩で「心意気」「堂々とした態度」という意味もある)だ」を叫んで倒れると、照明が落ちて幕が下がり、そのセリフが観客の心に染み入るのを待つように、しばらく静寂が続いた。そして幕が上がると同時に、静かだがしっかりとした拍手がずっとずっと鳴り続いた。観客はしばらく立ち上がらず、拍手を続けた。コメディー・フランセーズでも珍しいことだ。それほど、今日のシラノの役はすばらしかったと思う。

 心意気だけでも、この男のように生きてみたいものだ。
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2008年10月21日

コメディー・フランセーズ予約

コメディー・フランセーズ1

 なんと、コメディー・フランセーズでシーズン予約してしまった。観に行っても、セリフを百分の一も理解できない自分が、まったくコッケイな話である。

 スケジュールを眺めていたら、この春に観た『シラノ・ド・ベルジュラック』にもう一度行きたいし、『フィガロの結婚』も観て(良く理解できないから、正確に言うと、眺めて)みたい。あれも覗きたいし、これも気になる……というわけで、これだけ行くなら年間計画した方が安上がりだ、じゃあ、この申し込みに……、あれ、もう申し込み時期はとっくの昔に始まってるじぇねえか、しぁあないな、郵便じゃあこの国ではいつになるか知れたもんではないし、直に劇場に持っていってみるか――、ということになったのである。

 あわてて書き込んだ申込書も不安で、コメディー・フランセーズの窓口に恐る恐る出してみると、座っていたお兄さんが親切で、じゃあ、今、処理しちゃいましょう、ということになった。案の定、演目を、間違って一つずつずらして書き込んでいた。おかげで狙い通りの演目に申し込むことができ、おまけにできるだけ良い席を見つけてもらったのであった。

 ふむ、ちょっとにわかフランス文化人になった気分。
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2008年09月29日

喜劇『カサノバ』

 晩にテレビでやっていた映画を観ていたら、思わず引き込まれた。なかなか良くできた喜劇である。『カサノバ』というタイトルだった。『カサノバ』は1976年の フェデリコ・フェリーニ監督作のが有名だが、これは2005年のもの。

 込み入った話を細やかで丁寧に作り、良くできている。ひとことで言えば「2重のアイデンティーの喜劇」――主要登場人物が、それぞれ2重のアイデンティーを持ち、それらが交差し、時に重なり、時に誤解を生んでテンポ良い喜劇になっている。しかも、カメラワークや音楽が丁寧で良い。たとえば、低いカメラ位置からのパンで無駄のない効果を生む。一種の完ぺき主義。

 これはどんな監督だろうと思って調べたら、ラッセ・ハルストレム(Lasse Hallström)監督だった。あの『My Life as a Dog』や『The Cider House Rules』、そしてあの甘やかさとスパイスの効いたかわいらしい一品『ショコラ Chocolat』を制作した監督と知って、なるほどそれならと納得。もともとは、アメリカ人の女性作家がストーリーを売り込んだものらしい(以下のHPに詳しい)。
http://www.thefilmfactory.co.uk/casanova/

 観ていて、喜劇というのは作るのが本当に難しいのだろうな、と実感。いわば人生(人間のサガや社会の仕組みなど)をよく分ってないとできないのだろう。ハルストレム監督が「大人」であると感じた瞬間だった。
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2008年09月08日

映画は社会の鏡

 昨日、日本の映画についてあんな風に書いたが、それと機を一にするように、ベネチア映画祭で日本の映画が三本とも賞を逃した、と報じられていた。そのうちの一本は大好きな影像作家、宮崎駿監督のものだったので、とてもとても残念であった。

 ベネチアで賞を獲ったもの、話をきく限り、どれも歯ごたえのある社会派のものらしい。日本の映画をそれらとを比べて、どうしても、映画は日本の社会の引き写しなのだなと思ってしまう。

 そのワケを知りたくて、ネットでちょっと調べていたら、こんなコラムが。やはり日本の映画風土は、思っていたとおりなのかもしれない。残念だけど。
国内を見渡せば、そうした作品ばかりではない。いま作られる多くは、ベストセラー本や人気テレビドラマの映画化なのだという。海外での評価の一方、邦画全体の底は案外浅いのが実情らしい」とある。

 日本人というのは、もっとポテンシャリティーがあると思いたいのだが、外から見たら、かなりひ弱なのかもな。自分を含めて……。旅行に行くとそれを如実に感じるよ。

「天声人語」6日付
 映画の故・黒澤明監督が「羅生門」のあとに作った映画の評判は、散々だった。「当分は冷や飯を食わされる」と覚悟を決め、憂さ晴らしに川へ釣りに出かけた。ところが、何かに引っかけて糸がぷつりと切れる▼仕掛けの予備はない。ついていない時はこんなものかと帰宅すると、奥さんが飛び出して来た。ベネチア国際映画祭で「羅生門」が最高賞を取ったと知らされる。自作が参加していることさえ知らなかったと、自伝につづっている▼歳月は流れて、今年のベネチアにも「日本の風」が吹く。最高賞を競う部門に3作品が招かれた。北野武監督「アキレスと亀」、宮崎駿監督「崖(がけ)の上のポニョ」、押井守監督「スカイ・クロラ」である▼宮崎、押井作品はいまや日本のお家芸のアニメ映画だ。わびしく釣り糸を垂れた黒澤と違い、3人とも現地入りして、自作のお披露目に会見にと忙しい。前評判は良いと伝わっている▼3本はどれも、監督の哲学や技量に裏打ちされた深い世界がある。しかし国内を見渡せば、そうした作品ばかりではない。いま作られる多くは、ベストセラー本や人気テレビドラマの映画化なのだという。海外での評価の一方、邦画全体の底は案外浅いのが実情らしい▼生前の黒澤も、邦画の商業主義に辛口の意見をしていた。そして晩年まで、「まだ映画が何かよく分かっていない」と口にした。映画人にとっては永遠の問いに違いない。きょうは没して10年の命日。そしてベネチアの賞はあす発表される。金獅子のゆくえを見守っていることだろう。
http://www.asahi.com/paper/column20080906.html
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2008年09月07日

日本の映画について雑感

 こちらでも、テレビで日本の映画などをやる。それが話題の小津だったり吉田喜重だったりするのはよく分かる。しかし、時に、最近のドラマ(青春?)映画だとかホラー映画だとかが放映されて、ナゼなんだろうと思いながら観てしまう。

 先週そんなホラー映画をちょっと観ていて、それがヨーロッパ映画と雰囲気がはなはだしく違っていることに軽いショックをうけた。特に、日本で最近流行っているらしいホラー映画の描き方と、ヨーロッパ映画が苦労して描き出そうとしているもののギャップははなはだしいと思う。もちろん、ホラー映画と社会派映画を比較するのはフェアではない。しかし、日本の「社会派」といわれるもの(『それでもボクはやっていない』か? あれは意義ある映画と思うが)を振り返っても、あまりギャップが埋まるとは思えない。

 「試験管の中で起きているドラマ」という言葉が頭に浮かんだ。

 チェコやトルコやオランダなどの社会問題・政治的問題とノッピキナラナイ関係で向き合っている国、ドイツなどの自分の過去と真剣に向き合い、そしてこれからの未来も考えようとしている国(たとえば映画『善き人のためのソナタ』)、ヨーロッパではないが、日々の生活さえも脅かされている中東やアフリカの国々、こうした国の人々があえて映画で表現しようとするものの片鱗でも、日本の映画にあるだろうか。

 日本映画のこの社会派・政治派離れは、かつて指摘したことがある。海外の映画祭でも群を抜いているのだ。
If we lived in a Paradise …(もしこの世がパラダイスだったら…)
http://dokugo.seesaa.net/article/2195879.html
“豊かな国”日本は、表現力も豊かになっているとは言いがたいと思う。

 そんなことを考えていたら、数ヶ月前の昼飯時にのぞいた『フィガロ紙』に載っていた、世界の国々の平均余命についての記事を思い出した。
http://www.lefigaro.fr/sante/2008/05/21/01004-20080521ARTFIG00011-atteintes-cardio-vasculaires-premiere-cause-de-deces.php 
記事自身は、心臓発作が世界中で死因のトップになったという内容なのだが、そこに各国の平均余命が載っていたのだ。
 日本は83歳。その隣に一番短い国々が載っている。シエラ・リオン40歳。以下、
   レソト     41歳
   スワジ     41歳
   アフガニスタン 42歳
   ニジェール   42歳
   ジンバブエ   42歳
   ザンビア    42歳
こうした国では、日本の半分ほどの人生なのだ。日本とは、どういう国なのだろうか。やはり、パラダイス?(ちなみに、高い方は、スイス82歳、オーストラリア82歳、フランス、カナダ、アイスランド、スエーデンが81歳と続く。)
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2008年03月15日

黒川能

 今週、日本の伝統芸能「黒川能」の公演をするというのをほんとに偶然、耳にした。これは、山形県鶴岡市に500年の伝承を経て、能の古来の姿をそのままに伝える古典芸能で、国から重要無形民俗文化財の指定を受けている。

 こんなもの、日本だったら、コネか運がなければ見ることはできない。海外に住んでいる特権は、ときに、こんな形で現れる。と、あわててチケットを予約しようとしたが、水曜日から金曜日までのどの公演もほとんどすべて売れきれ。フランス人、パリ人の海外文化に対する関心は驚くほどだ(アメリカ人とエライ違い)。パリの巷の「Zen禅」文化の流行などを見ると、どのくらい正確に理解しているか怪しいものだけれど……。

 やっととれたチケットが、最終日の金曜日。行ってみると、出し物は『紅葉狩り』。能舞台は、ふだんのステージの上に、板を敷いて小さな舞台を作ったが、橋掛かりのスペースがないため、1メートルほどの形ばかりの「橋掛かり」をくっつけた、という代物。本来、橋掛かりでする所作を、橋掛かりの内側でやらざるを得なかったようだ。柱はなく、柱がある場所には「黒川能」と黒く書かかれた大きな白いろうそくが立っているだけだが、これは黒川能の本来の舞台もそうかどうかは分らない。本来は、薪を焚いて演じるそうだが。

 会場は満員。言葉はもちろん日本語だから、舞台の両側の幕に2メートル四方のスクリーンを下げて、そこにフランス語訳を映し出す。科白の日本語を聞くかぎりあまり面白くもないはずだが、近くにいたインテリ風の男性がしきりにクスクス言っていた。なにかフランス人のツボにはまるものがあったのか。そういえば、司会者はこの「能」を「la comedie de No」と紹介していた。「comedie」は「演劇、芝居」という意味だと思うが、「喜劇」という意味もある。先入観を植え付けてしまったんでは。

 一時間ほどの公演のあとに、黒川能の座(下座)の代表の方を交えて、質疑応答があった。フランス人から、かなり熱心な質問があった。質問の途中で雰囲気を無視してドタドタと音をたてて出て行く者がかなりいたのも、フランス人の観客らしかった。

 いっしょに観に行った美女は、隣で寝てしまった(軽い鼾をかいて寝られると、さすがに気が散る)。よほど疲れていたんだろう。『紅葉狩り』の登場人物の平維茂と同様、妖女たちの魔力にかかり夢に落ちてしまったようだ。
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2006年12月03日

映画『Fast Food Nation』

 マイケル・ムーア風のドキュメンタリーをイメージしていたので、面食らった。 
  
  アメリカのファーストフード業界、とくにハンバーガー業界をあつかったドラマである。いかに、ハンバーガーに肉を提供する会社(ここではテキサスの某社)がコストを安く上げるためにさまざまな手を使うか、メキシコからの「違法」移民を低賃金労働力で“搾取”しているかをドキュメンタリー風ドラマで描き出す。とくに、アメリカンドリームを抱いて、命がけでメキシコ国境を越えてくる若者たちの過酷な運命が、胸を打って言葉が出なかった。

  

  本当に気が滅入る映画であった。むろん、多くの人に 、とりわけ、アメリカ人に見て欲しいが、アメリカではどんな反応だったのだろう。

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2006年10月20日

映画『父と暮らせば』

 日本映画特別上映会とやらがあり、『父と暮らせば』を観てきました。ずっと気になってはいた映画ではあったので。

 これは、舞台をそのまま写した感じの映画なのですが、この映画監督は、コマーシャルを多く撮っていらした方なのでしょうか。パンの使い方が、どうも「舞台」にしては不自然な感じがします。宮沢りえさんは、まあ、昔見た頃より上手くなられたようです。しかし、あの父親役は、はまり方がイマイチではないでしょうか。
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2006年07月28日

映画『アメリカ、家族のいる風景』

ダメおじさんの一人として、気になる映画、心に残る映画というのがある。
「ダメおやじ」になったからには、それなりの“やむにやまれぬ事情”、“他でありえなかった理由”というものがあったのであって、失敗、困惑、失意、失恋、思い込み、行き違い、苦々しさ、過去の痛み、涙、沈黙、苦しみ、耽溺の酒、彷徨――と、いわゆるイタイ記憶は、まあ、いろいろあるわけだ。

で、そんなダメなオトコを描いたヴィム・ヴェンダースの映画『アメリカ、家族のいる風景』を観てきた。
公式サイト http://www.klockworx.com/america/

世界中を感動させた映画『パリ、テキサス』の名コンビ、ヴェンダースと脚本家サム・シェパードが20年ぶりに作った新作だ。失意のオトコの彷徨を描いた前作があまりに見事だったため、ヴェンダースは、「『パリ、テキサス』での仕事が“完璧な体験”であったため、20年もの間、再び組むことに躊躇していた」と言ったという。2人で何度も意見を交換し合い、脚本に4年をかけた。

原題は「Don't Come Knocking」。訳せば、「ノックしても入ってくるな」ぐらいか。映画の最初の方で、主人公の落ちぶれ映画俳優が使っているトレーラーハウスの中に、このフレーズを書いた看板が出てくる。実はこのフレーズ、その後の話の展開にとても象徴的な二重の意味を持つことになる。それまでの世界を飛び出て、新しく入っていこうとする世界、しかし、そこから突きつけられるこのコトバ――。

西部劇のかつてのスター、ハワードは、新作の撮影現場から突然逃げ出す。すべてにウンザリし、30年前に飛び出した故郷に向かう。「新しい人生」を開拓しようと。それが、「自分の過去」を見出し、さらには作り直そうとする旅になるところが、この話のミソだ。彼の子供を身ごもったというモンタナの女性の話。自分の子供を探し出すための田舎町へ旅。昔の恋人との不安な再会。見つけ出した息子の反発……。

上でフレーズの二重の意味を言ったように、どのセリフも気が利いていて、二重の意味を持っていたりする。たとえば、故郷に向かう車の中で、母親に電話する場面。携帯電話の電波が途切れそうになって、ハワードは叫ぶ。
「ママ、電話が切れちまうよ。切れちまうよ(Mom, you are breaking on me)」
実は、break on(関係を断絶)したのは、彼のほうだった、30年前に。そこに、いまや帰って行く……。

こんな風に、セリフが、実によく考えられ練られている。失業者のネイティブ・アメリカンなど、特に中西部がはらんだ社会問題も何気なく顔を出す。

役者もすばらしい。30年ぶりの息子の出現にも動じず、愛情あふれ機転の利く母親役を演じるエヴァ・マリー・セイント(はい、ほんとの名前です)、ハワードを捕まえにくる、冷静で執拗な保険会社派遣員サターを演じるティム・ロスはともに、名演技。

なんといっても、ハワードが子どもを孕ませた元ウェイトレスのドリーン役のジェシカ・ラングがすばらしい。ある日、母ドリーンは、息子に、実の父親が現われたことを問いただされる。それが実の父親であることを教えようとして、かつての恋人「あの映画俳優(the actor)」を、目に光をたたえて自慢げに語る女から、「行きずりの俳優ずれ(an actor)」と寝たことを息子になじられて、胸潰れる思いで悲しみにうちふるえる母親の表情への変化――をみごとに演じている。ジェシカ・ファンなら必見だ、……って映画広告を書いてるんですか、オレは。
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2006年06月04日

「何がしたい」希薄な日本映画

朝日新聞の夕刊に、宮崎陽介氏によるカンヌ映画祭レポートが載っている。納得することが多いので、引用しよう。

このコラムにも以前書いたが、ふだんから日本の映画状況に満足していない。その感じている気持ちをよく表わしてくれていると思うのだ。
参照:「If we lived in a Paradise …(もしこの世がパラダイスだったら…)」
http://dokugo.seesaa.net/article/2195879.html

まず(上編)「『何がしたい』希薄な日本」から。
「日本映画がコンペに無かったのは良いことだ。最近は主張も個性も希薄だから、再出発するべきだ」(中略)イタリアのヴディネ映画祭のステファン・クレミン氏は言う。日本は新進監督が早々と世界3大映画祭を狙いたがる、とも指摘する。

00年のコンペの参加作品だった青山真治監督の「EUREKA」など、9本をカンヌに出品してきた仙頭武則プロデューサーは「カンヌだけが映画の評価を定めるのではない、と言うのは負け惜しみ。日本映画は危機的状況にある」と語る。


・・・続く
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2006年05月29日

文楽『生写朝顔話』

 こんな時代でも、身を滅ぼすような恋に、ひとは憧れるんだろう。しかし、「美しい」のは、もろくはかない恋そのものか、あるいは、やはり恋に輝く女自身か?

 土曜日に、国立劇場で文楽を見てきた。
文楽・生ハ朝顔話1-large.jpg
出し物は、
義経千本桜(よしつねせんぼんざくら)
  椎の木の段
  小金吾討死の段
  すしやの段
生写朝顔話(しょううつしあさがおばなし)
  明石浦船別れの段
  宿屋の段
  大井川の段

    生写朝顔話より  →

 『義経千本桜』では、人々のお目当ては義太夫の竹本住太夫だが、トリの前に出たせいか、全体的におさえた詠い。前回の2月公演『天網島時雨炬燵(てんのあみじましぐれのこたつ)』で「北新地河庄の段」をやった時の唸りも、カスレも、汗も見せなかった。
 しかし、おさえた中に、平維盛の苦悩や、いがみの権太の哀しい磊落(らいらく)さが浮かび上がる。さすがだ。人形では、いがみの権太を遣った吉田玉女さんは、軽薄さとそこに隠された決意の深さを、淡々となにげなくやってしまう。あれは、もう、玉女さんの確立したスタイルなのだろう。

 『生写朝顔話』では、現在では、朝顔(実は娘深雪)とその恋する男、阿曽次郎とのすれ違いの物語として語られることが多い。
 朝顔の人形を遣った、吉田蓑助さんの名人芸が楽しめた。深雪は、全身全霊で恋に身を捧げる娘である。阿曽次郎を追って旅に出るが、やっと出会ってときめいても、男はつれない。男は国元に大事な用があって彼女を連れて行くわけにもいかないのだ、なぞという。 深雪は、「あなたに添うことができないのなら、身を投げて死ぬ」とまで言い、ついには男も折れるが――。

 運命のいたずらは、手を休めることがない。すれ違いばかりで男を取り逃がし、その熱い思いはかなわない。深雪は、想い悲しみ泣きぬれて、ついには盲目となり、身を落とし、それでも男を捜し続ける。

 ある夜、阿曽次郎(いまや駒沢次郎左衛門と改名)の泊まる宿で、他人を装う男に所望され、歌をうたう。
「ハイハイ。唄ひまするでござります」と焦がるゝ夫(つま=男)の在るぞとも、知らぬ盲の探り手に、恋ゆゑ心つくし琴、誰かは憂きを斗為吟(といきん)の、糸より細き指先に、さす爪さへも八ツ橋のやつれ果てたる身をかこち、涙に曇る爪しらべ、『『露のひぬ間の朝顔を、照らす日かげのつれなきに、哀れ一むら雨のはらはらと降れかし』……。
その直後、やはり運命のいたずらが、二人を翻弄する。駒沢は宿を去る。もしやと朝顔は戻ってくる。が、駒沢は去った後であった。半狂乱になり大井川まで追ってくる。しかし、駒沢たちは既に川を渡ったあと。川を渡って追いかけたいものの川はにわかの大水で「川留」となっていました。
……笛のくさりを刎ね切って、名のみ流るる大井川、水の泡とぞなりにける。あとは枕に取りすがり、わっとばかり泣く深雪。露の干ぬ間の朝顔も、山田の恵みいや増る、茂れる朝顔物語、末の世までもいちじるし。
ストーリーはこちら。http://www.lares.dti.ne.jp/~bunraku/guidance/top_asa.html

 朝顔が、自分の感情を殺しつつ身の上話をし、その後、つい先ほど声を交わしたのが駒沢であると知って異常なまでに取り乱すという変化を、吉田蓑助さんは連続的に演じている。ちょっとこの取り乱し方は、そぐわないとも思ったが。

 今の日本、効率性やコストパフォーマンスなどばかりを追求して、自己保身にあくせくする女性が多くても、身を滅ぼすような単純な恋は、己を破滅させない限り、観てみたいものなんだろう。日本になければお隣の国から借りてきても。
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2006年05月25日

エドワード・サイード『OUT OF PLACE』

先日、エドワード・サイードについてのドキュメンタリー映画『OUT OF PLACE』を、御茶ノ水アテネ・フランセで観てきた。

エルサレム、エジプトのカイロ、レバノン、ニューヨークと「常に彷徨い続けた」(と本人は思っていた)人生ゆえに築き上げられたその思想を、各地の映像と家族・友人たちの証言でつづる。

彷徨い続けたがゆえに身についた、ものを見る視点の非固定化・多層性・流動性が、彼の思想の核となり、異文化を語る姿勢を支えたのだと思う。

最後のほうで、レバノンへと移動する車からの映像にかぶせて、彼の著書『OUT OF PLACE』(邦訳『遠い場所の記憶 自伝』)からの引用がされる。
私という自分というものは、いくつかの旋律がより合わさった流動体のようなものだ。それらの旋律のうちどれかが主調音になっているときは、調子がいい。このように自分というものをみなせば、西洋思想にあるように確固たるひとつの自我、個を前提しなくてもよくなる。
そんな意味のことだった。まさに、そのとおり。そんな「おのれ」の形成の仕方があってもよいと思う。
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