2010年12月08日

ゴッホ展

仕事が休みなので、国立新美術館でやっているゴッホ展「没後120年 ゴッホ展――こうして私はゴッホになった」を、パコを抱いて観に行く。
http://www.gogh-ten.jp/tokyo/index.html
http://www.gogh-ten.jp/tokyo/works/chapter1.html (作品解説)

こういう押しつけがましいタイトルは好きではない。ゴッホの芸術的発達がわかる展覧会という意味なのだろうが、そういうサブタイトルは、観た者自身が決めればいいことだ。流行りなのか。このタイトルに「。」とかつけたら、絶対行かないと思う。

オランダのゴッホ美術館とクレラー=ミュラー美術館の作品を中心に、120点ほどを展示したという(没後120年にかけた?)。ただし、ミレーや他のゴッホに影響を与えた画家も絵も含んでのこと(ミレーは良いけど)。ゴッホの絵は、20点ほど?その内、メジャーなものは5点もあったか。こうした有名画家展覧会、特にゴッホ展は、たった1点か2点の作品で『ゴッホ展』(あるいは『ゴッホと○○展』)と名打つのが多すぎるなあ。いくら商売とは言え。

美術館ではベビーカーを貸してくれる。パコがよく寝てくれたので、ゆっくり観ることができた。人は多い方だったが、ゴッホ展にしては少ない方か。昔は、2時間待ちとか普通だったから。日本人の好みが多様化?――いや行動範囲が広くなって、自分でヨーロッパに、直接見に行く人が増えたからか。

展覧会は、タイトル通りゴッホの若い時からの作品に、彼に影響を与えたと思われる画家の絵を並べたもの。しかし、若い時に決定的な影響を与えた教師画家アントン・モーヴの絵はほとんどないし、後年、ゴッホのヒマワリの絵などに絶大な影響を及ぼしたモンティセッリは花の絵が欲しかったところ。(アントン・モーヴの影響については、アムステルダムのゴッホ美術館は、詳しい解説をしている。)

会場では、ゴッホの絵とそれに影響を与えたと思われる画家の絵を隣り合わせにしたり(よくあるパターン)、CGで“復元”した、アルルの「黄色い家」の屋内構造の展示があったり、この展覧会に触発されてあるシンガーソングライター(?)が書いたという「歌」のビデオがあったりと、マルチメディア時代にふさわしい(??)展示が並ぶ。雑誌のように総花的だ・・・。歴史的な絵画発展を見るにはいいか。ただ、きらびやかな作りのわりにはゴッホの絵を堪能できるかは、ちょっと疑問。

ゴッホが黄色中心に染め、自ら額も黄色に塗りあげた一枚「マルメロ・レモン・梨・葡萄」は、その色も迫力が純粋で、今見てもとても新鮮。飾っておきたい一枚。パリ(モンマルトル?)レストランの窓から外を描いたちょっと暗い絵には、誰ともわからぬ二人の人物像が。ゴッホこの時期特有の、寂しさを癒そうとする筆の加えの良い例であった。

会場を出ると土産物売り場では、絵葉書や複製に並んで、ゴッホ・クッキーやワイン、レストランでのゴッホディナーへの案内が。こういうところはますますエスカレートする。日本人にとっては、「大山詣で」で知られる日本三百名山の一つ大山の大山饅頭なみの人気なのであろうか。確かに、ゴッホは信仰の対象なのかもしれない……。
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2010年03月26日

おかえりなさい、吉田秀和さん

 今月初めの朝日新聞文化欄に、吉田秀和氏の音楽時評エッセイが載った。

 とても嬉しかった。しばらく前に奥さんを亡くされて、かなり気を落とされたのか筆をおかれて、紙面で見かけることもなくなっていた。時評の内容は、さまざまな有名ショパン弾きについての吉田秀和さん一流のもの。ややもすると小難しくて、難解な音楽用語で語りがちな(実際、そういう音楽評論家のなんと多いことか!)演奏と音楽の関係を、昔のように判りやすく、小気味いい文章で示してくれる。それ自身が、一つの軽やかな演奏!

 翌日だったか、新聞広告欄で、文学雑誌『すばる』にもエッセイを載せられているというのを読んで、さっそく本屋で確認した。内容は、私のような音楽音痴にはわからないものだったけど、吉田秀和さんがなにかのエネルギーを取り戻したというのは感じられた。

 加藤周一なきあと(フランスであの報を聞いた時の放心状態は、忘れられない)、吉田秀和さんのエッセイこそ、心を洗ってくれる清涼剤、安定剤、文章で知性を刺激してくれるカンフル剤。

 どうかいつまでも、細々と長く続けて下さい(できることなら)。
おかえりなさい、吉田秀和さん。
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2010年01月27日

ジョードプルの絵画

Paintings of Jodhpur2.jpg

インドの西、ジョードプルという町に残る、二百数十年前に描かれた絵。
(クリックすると拡大。借りてきたサイトは、こちら

仕事の調べ物をしていて見つけたのだが、見た瞬間に言葉を失った。
なんという率直さ、純粋さ、単純さ。
それでいて、なんという胸の空くようなパワー。

中世初期のキリスト教彫刻や、ケルト芸術などとは違うシミジミとした印象。

みていたら、自分でも絵を描きたくなった。素朴なものでも。夢のある童話のようなもの?ムーミンのような?
いやいや、ムーミンは、あまりに完璧すぎる。
絵描き用のタブレットでも買うか……。

Paintings of Jodhpur1.jpg

http://www.telegraph.co.uk/travel/picturegalleries/5362232/Royal-paintings-of-Jodhpur.html
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2009年07月31日

ゴッホ忌

 昨日はゴッホ忌だった。パリからも遠くないオーベール・シュル・オワーズの麦畑で拳銃自殺を図ったのが1890年7月27日。その3日後の30日に亡くなった(オーヴェール・シュル・オワーズのこと、そこにある彼と弟テオの墓のことは、このブログでもたびたび書いている)。
http://dokugo.seesaa.net/article/29791779.html
http://dokugo.seesaa.net/article/52761781.html

 この日のために、ゴッホの故郷、オランダのヌーナン町で買って来たワインを飲んだ。去年の秋、彼の故郷を訪れたのだ。ゴッホはズンデルトという小さな村で生まれた。ズンデルト村には「ゴッホ・ハウス(記念館)」があるが、ゴッホの天を突くような高価な絵は一枚も置いていない。ゴッホがどんな人間だったかを示すパネルがあるだけだ。その代わり、近くの広場には、ザッキン作のゴッホ兄弟像が立っていて胸を打つ。

 ゴッホは隣町のヌーナンで、絵画を本格的に始めたという。このヌーナンに「ファン・ゴッホ文書センター(Van Gogh Documentatiecentrum)」というのがあり、ゴッホの生涯の歴史を辿れるようになっている。もちろん、彼の絵はない。売店では、絵葉書の間にワインを並べて売っていた。その名が「サン・ゾレイユ(耳なし)」。もちろん耳を切り取ったゴッホのことを示唆しているのだが、悪い冗談だと思った。しかし、興味があって買ってみたのだった。

 ズンデルト村は、まともなホテルもない。泊まった宿兼レストラン(かつてゴッホが生まれた家なのだそうだが)は、学生寮以下のオソマツなものだった。広場の向い川には、今も教会の塔が見えるが。ただ、「ゴッホ・ハウス(記念館)」は頑張っていて、特に、そのレストランの経営者は情熱にあふれ、「ここは出来たばかりですが、将来きっともっと大きくするつもりです」と、野心的だった。ゴッホがよく歩いたという道すじは「ゴッホ・ルート」として示されている。歩いてみたが、晩秋のオランダの田園は光もあまり差さず、いかにも彼の「馬鈴薯を喰う人々」のような暗く重い空気であった。

 一方、ヌーナンは、しっかりと住宅が整備され住みやすくなった町で、ゴッホ縁の建物も残しているようであった。

 思えば、フランスでオーベール・シュル・オワーズを初めとした「ゴッホを訪ねる旅」は、この故郷訪問で完結したのだった。その後、
   ・サン・レミの療養院
   ・アルル
   ・アムステルダムのゴッホ美術館と、その郊外にあるクレラー・    ミュラー美術館
   ・ブリュッセル
   ・ズンデルトとヌーナン
とゴッホの人生を逆行する形で訪れた。それらの瞬間を思い出しながら、飲んだのであった。ちなみに、オランダはワインを産出しない。この「耳なし」ワイン、彼が憧れたプロヴァンス辺りのゴール地方のものである。
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2009年05月06日

やっぱり若い演出家

 昨日のオペラ。別の日に行ったある人によると、幕後、演出家が舞台に出てくると、大ブーイングだったそうだ。この演出家は、ロシアの若い人だそうな。

 あれでは、長く人生を生きてきた老人もふくむ観客を感動させることはできまい。文学とか劇とかもっと読みましょう。いろいろ経験して、悲劇とは何か考えてみましょう。

 ちなみに、今のオペラ座の総監督はかなり人気が悪く、今年で契約が切れるのをいいことに、来年からは新しい監督を雇うそうだ。たしかに、今シーズンは、『魔笛』など野心的過ぎて観る者のことを考えてない演出家(巨大な空気マットを駆使して舞台を作ったは良いが、空気をモーターで入れる音がうるさくて、音楽どころではなかった)がいたり、演目の選択が疑問視されることが多かった。

 来シーズンの日程を見たら、確かにオイシイのが並んでいる。『ボエーム』とか、この3年で一度もやらなかったからね。
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2009年05月05日

オペラ『マクベス』

 バスティーユ・オペラ座でオペラ『マクベス』を観た。

 開演前に降ろされた幕には、グーグル・マップの地図のようなものが映されていた。開演と同時に、地図上にあった「カーソルめいたモノ」が、ある家をクリックする。と、画面はその家にズームインし、やがて界隈一帯、そしてその屋根を拡大したかと思うと、カメラはグッとその家の横にパンして、大きな窓を映し出した。そこに空間が開き、そこから家の内部が見える。そこから見える居間が、オペラの第一幕の舞台である。

 話は、あの「マクベス」が、現代のとある町の上中流家庭の一室で繰り広げられるという展開だ。登場人物は、すべて、どこかの会社に勤める上司とその部下、そしてその家族という雰囲気。マクベス夫人は、意図的なように太って美しくもない女性を起用。着ている物もカーディガンとか。古典的「マクベス」に完全に背を向ける。

 幕が換わると、どこかの広場を囲む集合住宅。どれも似たような味気ない建物。その前の広場が舞台。そこで家々から出てきた普段着の者たちが、界隈の集会か井戸端会議のような風情で歌う。

 現代風設定が悪いというのではない。「グーグル・マップ」も、「幕に開いた窓」から覗く設定も、奇抜で面白いといえばいえる。しかし、ここで行われているのはマクベスの「悲劇」ではなく、ある社内の権力争いか、町の陰湿な争いぐらいにしか見えなかった。劇的な場面で歌い手に感情のこもらない振る舞いをさせたり(マクベスが最終幕で下着一枚になってテーブル上で歌い続けるのも、いくら狂気を演じるとはいえ、なんとも痛々しい)。歌い手にやたら無理な姿勢で歌わせたり。悲劇性がまるで殺がれているように見えた。マクベス夫人の声が通らないのも、痛かった。

 なぜシェークスピアのこの悲劇が長いあいだ愛されてきたか、「悲劇」というものがどんなものか、そこにどれほどの人間の業がからみ、その結果、感情や理性が振り回されるのか――そんなことに、この演出家はまるで注意を払っていないように思った。この演出家は、経験のない若い人(テレビゲーム世代?)ではなかろうか、「悲劇」というのは実に社会的な、人間的なことなのだな……、そんなことを最終幕を観ながら考えた。

 オペラが終わってマクベス夫人が舞台に出てくると、ブーイングだった(すでに、最終幕に「幕に開いた窓」が出ただけで、ウンザリした一部からブーイングだったが)。ここまではっきりブーイングも珍しい。指揮は若いロシア人らしいが、これがキレ、情熱、強弱のメリハリに優れた指揮で、今回の唯一の収穫だった(唯一人、会場からの万雷の拍手。)
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2009年03月11日

フランス風景画への道

(過去日記。仕事や用事に追われ、ブログにさける時間がありませんでした。)
 地獄のような仕事が一息つきそうなので、夕刻、ルーブル美術館に行ってツアーに参加した。ルーブルは、水曜と金曜は9時過ぎまで開いているのだ。今夜のテーマは、「フランス近代絵画に描かれた風景画」。

 フランスでは17世紀18世紀を通して、風景画は決して重要視されなかった。フランス絵画アカデミーでは、「宗教・空想画」「肖像画」「静物画」「風景画」の順にヒエラルキーが決まっていたという。セーヌ河に浮かぶシテ島にあるなんとかという館の広間の壁には古い絵が飾ってあるが、それらは壁の上からちゃんとこの4種類の絵の順番で並べられているんだそうだ。

 しかし、画家の方もさるもので、風景画に魅せられた画家は、宗教・空想画のテーマを使いながら、それを“言い訳”に素晴らしい風景画を描いたのだそうだ。確かに、ターナーも顔負けの黄色く美しい夕陽のシーンを描いた絵がある。頭の硬いアカデミーが君臨するフランスの「確固としたヒエラルキー」に対抗して、その抜け道をねらう者もいたのである。

 しかし、風景画が本当の主役になり、キャンバスにフランス人好みの光があふれるようになるためには、その後100年、本物のコローを待ち、フランス印象派を待たなければならなかった。フランスは風景画が盛んだったオランダとは違った歴史を歩んだのである。それには、フランス人の自然を軽視するメンタリティーも関係がある、とガイドは言った。

 まだ風景画が“オマケ”の時期だった18世紀最初の時期に描かれた風景画のスケッチが、ルーブル美術館の絵画ホールを繋ぐ通路に飾ってあるが、コローの筆使いを思わせるような正確で見事なものである。そだし、これらの素晴らしい風景画は、宗教・空想画の題材にしか使われなかったという。こからコローの出現までは、ほんの20年ほどである。この間に、フランスに何が起こったのだろうか?

 ツアーの間に、東の中庭を覗くと、仮設テントが光の中に浮かび上がっていた。この時期の「パリのファッション・ウィーク」を彩るショーのため、美女たちが歩く「キャット・ウォーク」なのだそうだ。
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2009年02月09日

オペラ座で小澤コンサート

 明け方から強い風が吹き、時おり強い雨が降った。しかし、寒さよりも湿気を強く感じるようになってきた。パリは、いっきに春になるのかもしれない。

 土曜日に、オペラ座で小澤征爾氏のコンサートがあった。普段はチケットが高いオペラ座であるが、多くの人に聴いてもらおうとする計らいか、この日ばかりは高くなかった(5ユーロから)。オケはパリ国立オペラ管弦楽団で、演目はハイドンの「協奏交響曲変ロ長調〜オーボエ・ファゴット・ヴァイオリン・チェロのための(Sinfonia concertante for oboe, bassoon, violin and cello in B-flat major)」とブルックナーの「シンフォニー1番(Symphony n°1 in C minor, A 77)」。日本人の客が多かった。(しかし、演奏中にフラッシュで写真を撮るのは勘弁してほしい。)

 このパリ国立オペラ管弦楽団というのは、まったくの曲者である。わたしは、音楽は素人だが、その素人でも判るようなひどくダラシナクしまりのない演奏を、オペラやバレエの最初の序曲などでやる。じゃあヘタかというとそうでもないらしく、演目の最後や大事な楽章では、きちんと揃った演奏をする。奏者の態度も「いかがなものか」的なことも多く、以前、バイオリン奏者が、演奏のまっ最中、自分が弾かないところで体を揺すりながら隣と談笑しているのを見たことがある。さすが、フランス人?まあ、楽団そのものにも1軍と2軍があるのかもしれないが。

 今回は、こんなオケが、マエストロ・オザワを迎えてどうなるか注目、いや心配だったが、蓋を開けてみれば、「オッ、やるじゃねえか」というものだった。私の目には、小澤氏の明快で完全なコントロールの元に、みごとなパフォーマンスをしたように思う。特に、ブルックナーの「シンフォニー1番」は最初からかなりの難曲らしいのだが、始まった瞬間、ふだんのこのオケとは思えなかった。

 それもオケと指揮者の調和のおかげというより、なかなか動かないオケと一流指揮者のぶつかり合い――調教のような火花さえ感じられると思った。「シンフォニー1番」の第2楽章で、ちょっとモノトーンで雑になったか、と感じていたら、マエストロはもっと重大な問題を見て取ったらしい。なんとその楽章が終わったところで、小澤氏がバイオリンの列に指を立てて注意をしていた。

 演奏が終わると、楽団員自身が拍手。
なかなか動かない猛獣、パリ国立オペラ管弦楽団か。
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2009年02月02日

ル・コルビュジェのサヴォワ邸

 昨日からやけに寒いと思ったら、今日は、朝に雪が降った。イギリスから海を越えてフランスのパリ辺りまで降ったそうで、エッフェル塔もなにもかも、一面雪景色であった。交通機関は、ストから立ち直ったと思ったら、また大騒ぎである。

 昨日は、パリの西、ポワシーというところにある、サヴォワ邸を観に行った。20世紀を代表する伝説的建築家ル・コルビジェの作品だ。むかしアメリカで、建築史の講座にもぐりこんで講義を聴いた時にスライドを見せられて感動し、いつかは観たいと思っていたのだ。(しかし、感動したなら、もっと早く観に行っちゃどうかねえ、自分。)

ル・コルビジェのサヴォワ邸1 確かに、美しい。外から見ると、空中に浮かぶ白亜の玉手箱かなにかのようだ。ル・コルビュジェが言ったように、「この家は、何も妨げることなく、オブジェのように芝生の上に置かれている」。

 これは、1928〜1931年にかけて、サヴォワ夫妻のための週末の別荘として建てたもの。1927年にル・コルビュジェが近代建築における5つの原則として表明した
 「自由な設計 (Plan Libre)」
 「自由な平面 (Facade Libre)」、
 「ピロティ (Pilotis)」
 「屋上庭園 (Toits-jardins)」
 「横長の連続窓 (Fenêtre en Longueur)」
を実現化したものだそうだが、その水平線の開放的な使い方、それを殺さない斜めの方向の線とともに、確かに80年たった今見ても、アイデアは新しく見える(現在も大きく変わってないということ?)。そのスマートさは、まさに「記念碑」的だと思う。中の螺旋階段なんか、それだけで心をウキウキさせる存在だと思う。

 ただし、家の内部は、窓の立てつけが悪かったり、壁の隙間がイマイチだったり、キッチンは収納機能は十二分だが美的にはイタダケなかったり、客間が大学の寮以下の狭っくるしさだったり――と、どうもここは住みづらいなあと思わせられてしまった。もちろん、80年たった窓枠がひしげていたり、素材が傷んだりしているのはしょうがないだろうし、今現在の上質素材があれば、ル・コルビュジェの理想もさらに良く実現されたのかもしれない。

 しかし、噂では、この家ができたその年にすでに雨漏りがひどく、サヴォワ夫妻はある時から住むのを諦めたという。見かけはスマートで抜群でも機能や実際に問題があるとは、なんとフランス的なことだろう。やはりル・コルビュジェ、フランス人だよなあ(スイス生まれだけど)。
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2009年01月21日

写真

 去年の今頃、パリのピカソ国立美術館に『Picasso Cubiste, 1906-1925』展覧会(たしか、アフリカ芸術のピカソへの影響から説き起こしていた)を観に行った時、同時に写真展『ゲルニカへのオマージュ:1937年ゲルニカ2007年 ジル・ペレスの写真(Hommage à Guernica: 1937 Guernica 2007 Photographies de Gilles Peress)』が開催されていた。それは、ピカソが『ゲルニカ』で描いた戦争から70年を経たことを記念し、『ゲルニカ』制作のためのデッサンやピカソが制作している場面の写真(本物はマドリードのソフィア美術館に永久展示のため持って来ることはできない)と、現代の新たな戦争・悲劇である「ルワンダ」「ボスニア」で苦しむ人たちを撮ったジル・ペレス氏の写真を並列展示するものだった。

 並列展示はペレス氏が望んだそうだが、「暴力」「無理やり奪われる生」「押し付けられる悲劇」「仲間・家族の死の苦しみや哀しみ」「突然くる別れ」「理不尽」「人間の残酷さ」は1937も現代もまったく変わりはない、そして、これらの写真の悲惨さはまさにピカソが『ゲルニカ』で描こうとしたことだ、というのが趣旨だ。

 すべてが白黒写真だが、なんと迫力と説得力のある写真だったろう。たとえば、爆撃でめちゃくちゃに破壊された家の中で、家族の死にぼう然と立ち尽くす女性の写真。特に、バスで移送される難民が、バスの窓に圧しつけた掌の間から大きく見開いた悲しい眼で去ろうとする町をにらむ写真や、マイクロバスの窓に二つの掌が圧しつけられ、それにバスの外から別れを告げる一本の手――手だけが主役の写真は、今も忘れることができない。(下にネットから引用)
http://globetrotter.berkeley.edu/Peress/images/Hands.jpg 

 胸を打ったのは、その「戦争という現実」の示し方・切り取り方であることは明らかだった。現実の何を見るか、どう切り取るかで、写真つまり「そこに提示された現実」がこれほど説得力を持つものだということを、強く見せ付けられた展覧会だった。

 写真は、写真のための機械(カメラ)の優秀さで決まるのではない。場面の切り取り方や被写体への眼のつけどころが大事なのだ。パリの街で不釣合いなほど巨大で高価そうなカメラを持ち歩いている観光客を見ると、それをよく思い出す。
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2009年01月18日

『ルオー』展:フランス人が「Zen」と言ったら気をつけろ

 パリ中心のマドレーヌ広場沿いにあるピナコテーク・ド・パリという美術館(ギャラリー?)での、『ジュルジュ・ルオー――出光コレクションの名品(Georges Rouault, les chefs-d'oeuvre de la Collection Idemitsu)』と『ジャクソン・ポロックとシャーマニズム(Jackson Pollock et le chamanisme)』展に行く。いつもながら、ルオー展の方は閉会ギリギリになってしまい、重い腰を上げた。両方とも入場料9ユーロと、パリにしては高い(文化的活動に金のかかるバルセロナ並みだ)。

 『ジュルジュ・ルオー』展は、日本の出光美術館所蔵のルオーの作品をパリで紹介するもの。なんで出光はこんなにルオーを持っているんだ、と言うくらい数は多いのだが(石油のおかげ?)、展示の仕方は、ルオーとその知人・友人(モロー先生、友人マチスなど)との交友関係を示す形でなされている。それはそれで面白いし、ルオーの作品はやはりいつ見てもすばらしい。が、この美術館、日本のギャラリーを思わせるような狭い“ウナギの寝床”のような作りなのだ。しかも、説明文パネルをわざとのように狭い通路に貼ったので、人でつかえてまともに歩くこともできない。

(出光で多く所有されていることもあるように)ルオーがなぜ日本で人気があるのかを説明するパネルがあった。要約すると二点。第一点は、これらのルオーを買い上げた出光氏が言っていたことだそうだ。日本では、書道が一般に価値あるものとして尊ばれており、ルオーの輪郭の太い線は書道を思わせる。しかし、これは、書道を好まない、あるいは(わたしのように)たしなまない日本人でも多くルオーを好む、という事実を説明しない。
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2009年01月12日

『ピカソと巨匠』展

 午後からグラン・パレの国立ギャラリーで催されている展覧会『ピカソと巨匠たち(Picasso et les Maitre)』を見に行くことに決める。この展覧会、あまりに人気で、入場時間指定での前売り券がとっくの昔に2月2日の最終日まで売り切れた、というシロモノ。当日券を求めて並んでも、2時間はゆうに待つという。

 ピカソと彼に影響を与えた画家を並べて展示するらしいこの展覧会、現在、ルーブル美術館の『ピカソ/ドラクロア:アルジェの女たち』という展覧会と平行して開かれている。後者は、ドラクロアの名作『アルジェの女たち』にインスピレーションを得てピカソが描いた物を同時展示するというもの。それは見たし、ピカソの絵は、過去の何回かの展覧会、パリのピカソ美術館、オルセー美術館、最近ではバルセロナのピカソ美術館、とけっこう観ている。ピカソは多作だが、まあだいたい観てるだろうと思っていた。それを、何をトチ狂ったのか、この雪も降ろうかという寒空の中、2時間も並ぼうとは――。

 当日券も入場制限をしていて、30分ごとに20人程が入れるだけだ。入れたのは当初の予想通り2時間後、体は完全に凍りついていた。チケット売り場に向かうと、「時間指定の入場制限」どころではない。いったん館内に入った者なら誰でもかえるユルサである。これなら、同時にやっている『エミール・ノルデ』展覧会の券を買ってカフェによるつもりで入って、ピカソの券も堂々と買える(実際そうした人々もいたようだ)。こういう「ザル規制」的などこか抜けたユルサは、まさにフランス的。

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2009年01月11日

日本のMingei展

 ケイ・ブランリー美術館で開かれている日本の民芸品の展覧会『Upside down et Mingei』を観に行った。地味な展覧会で客はまばらだが、異国文化、アジア趣味を求めるフランス人が熱心に観ていた。

 美術評論家・思想家の柳宗悦が集め東京の日本民藝館に収められた工芸品を、日本から持ってきたものである。日本民藝館は駒場公園の隣にあって、学生の時、日本の伝統くらい知っておかなければと、暇ができるとよく行ったものだった。公園の古木の間を降りてくる午後の気だるい陽射しを、今でも良く覚えている。

 会場では、当時のいわゆる「民芸運動」に関わった濱田庄司、河井寛次郎の作品が、日本各地や「李朝」のさまざまな工芸品とともに、それらから受けた影響がわかる形で展示されていた。フランスであらためて日本や朝鮮半島の優れた工芸品を見ると、その造形の美しさ、優れた美意識、完成度の高さに感動する。秋田の蓑など、今フランスで見てもモダンだ。「モダン」と言うことの意味を、あらためて考えさせられる。

 民芸運動の機関誌「民藝」や「工藝」も、何冊か展示。柳宗悦の長男の工業デザイナー柳宗理の作品(有名な「バタフライ・スツール」)や、その他、バーナードリーチなど民芸運動に関わった外国人の作品もいくつかあった。特に、フランスから工芸指導官として来日して各地を視察しながら日本の伝統美術工芸を学び、和・洋を美的にも機能的にも上手く調和させたシャルロット・ペリアンの作品がおもしろかった。

 ケイ・ブランリー美術館では、同時に、アフリカからの祭祀のための品や装飾品の小さな展覧会もやっていたのだが、実に不可思議な形の人形などを見やすく展示していた。それらの間を歩きながら、(フランスから見れば)マージナルな文化にこれだけ精力と金を費やすフランスもなかなかのものかもしれない、と思った。(日本の民芸は、アジア芸術を展示する「ギメ美術館」でもいいとは思うが。)

 帰りに、一月の風物詩のお菓子ガレット・デ・ロアを、美味いので有名なあの店で買って帰ってきた(下の日記参照)。今年初のガレット・デ・ロア、噂にたがわず非常に旨かった。中のアーモンドクリームが甘すぎない。なにより、バターをたくさん使っているはずなのだが軽い。そして、出て来た人形(フェーブ)がピエロ。大人も嬉しいガレット・デ・ロアである。
http://dokugo.seesaa.net/article/111206154.html
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2008年11月22日

デュフィ展

先週の木曜日、パリ市立現代芸術美術館(Musee d’Art moderne de la Ville de Paris)で開かれている『ラウール・デュフィ――喜び(Raoul Dufy)― le plaisir』展に行った(「plaisir」には、「楽しみ」「快楽」という意味もある)。わりと華やかな色使いのこのデュフィという画家はあまり好きではないが、初めての大々的な回顧展であり、また何人かの知人が勧めてくれたのだった。

このフランスの「大家」を知る良い機会だから、と木曜日だけにある「英語ツアー」に申し込んでおいた。ところが、約束の時間になって美術館に行ってみると、「今日のツアーはない」と言う。「それはいつ決まったのか?」と、受付業務の背が高くていかにも責任者という女性にややキツイ調子で訊くと、今朝決まったのだと言う。申し込んだのは前日の昼頃である。なぜそんなに突然の変更をするのか?申し込んだ者が少なかったので、ガイドが辞めるといったのかもしれない。しかし、もちろんサイトの「案内」には、人数によってキャンセルもあり得るとは書いていないのだ。

受付業務の女性は、バツが悪そうに「今一度、ガイドに来れるかどうか確認するから、15分ほど待ってくれ」と言った。受付の隣で待つことにした。しかし、20分たっても30分たっても、彼女はどういう仕儀になったのか自ら説明にも来なかった。あたかも自分の責任ではないかのような振る舞いである、フランス人に良くありがちなように(バツが悪そうにしたのが、唯一の例外だったが)。公的な機関でこうである。フランスのルーズさ、身勝手さの良い例である。

 「毎回、当日の朝にツアーがあるかどうか、自分で確認しなくてはいけないということか?」とねじ込むと、「その方が良いと思う」と答えやがった。これでは予約が何の意味もなさない。待っていてもラチがあかない、かといってこのまま帰るのもせっかく来た時間が無駄になる。シャクにさわったが入ることにした。

**************
さて、かなりの数の展示。部屋も20近くあったろうか。それなりに面白かった。デュフィの作風が若い頃、印象派的な傾向から始まり、やがてセザンヌのスタイルを真似、キュビズムまで行ったが、いつの間にかそれらを自分のオモテ的なスタイルからは捨てて、あのカラフルで単純な作風に代わってゆくのが良く判った。その変遷に大きく影響したのが、戦争の前と後にかかわった装飾関係の仕事だったようだ。装飾のための単純化と華やかな色合い――彼がそこに居心地よさを見出したのは明らかに見えた。そして、このスタイルが晩年の彼の絵のスタイルになっていったのだ。

この作家はもともと、対象やその動きをいっきに捉えるデッサンがヘタではない。それは、神話などをモチーフにした、彼のすぐれた版画に見てとることができると思う。しかし、対象と自分の絵画的ボキャブラリーのズレ(それはどんな作家にもある)が、セザンヌのスタイルやキュビズムでは実現できなかったのだろう。

そして、晩年の絵に頻繁に現れる、海に浮かぶ黒い貨物船――子どもの頃に目にして“原風景”となったのだろうか。貨物船は、どんな華やかな絵の中にも唐突に、黒く、あたかもブラックホールのように描かれていた。あたかも、彼の絵の華やかさはこの「黒い物体」を際立たせる彩り鮮やかな舞台であるかのように。
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2008年11月02日

ピカソとマネの再発見

 今日は、月初めの日曜で美術館がタダの日。パリの美術館はだいたい行ってみたと思うが、フランスは毎秋10月から翌年の1月にかけて展覧会シーズン。パリだけでも、ヴァン・ダイク展、ルオー展、ピカソ展(オルセー美術館、グラン・パレなど3箇所で)など、大きなものが目白押しである。

 そこで、朝から、特別展もタダになる(貧乏だね)オルセー美術館へ。開館直後に行ってみたが、もうすでに長蛇の列だった。列の進みは速いようなので、並ぶことに。ちょうど、中国語を大きな声で話す集団の前になってしまった。ほぼ皆20代と思しき30人くらいの集団で、初めてのパリで興奮するのか、大声で叫びあい、写真を撮り合っている。

 あまりにやりたい放題なので、一番近くにいた比較的歳の行っていそうな男性に、できるだけ紳士的に(のつもり)、どこから来たのか英語で話しかけてみた。「中国から?それとも、香港から?」と訊くと、ちょっと不服そうな顔をした後で、「台湾」と答えた。台湾の保険会社の社員で、年に一度の社員旅行なのだそうだ。
「600人ほどの会社ですが、一種のボーナスで、みんな世界中のどこかに旅行できます」
と自慢そうに話した。周りのフランス人たちは、このアジア人同士の会話を興味深そうに聞いていた。

 ピカソ展(正式名称は「Picasso/ Manet – Le Dejeuner sur l’herbe(ピカソ/マネ――草上の昼食)」)は、マネの「草上の昼食」にインスピレーションを受けてピカソが描いた絵やデッサン、またそれにもとづく版画などを、クールベの絵と並べて展示したもの。ピカソはこの種の絵をたくさん描いたが、会場そのものは40点ほどの小さいものだった。

 マネが1863年、それまでの伝統に反旗をひるがえす形で描いたこの作品(マネ自身は、正統派のジョルジョーネの伝統を取り入れたものだと告白している)――、そのおよそ100年後、その反逆の大作にピカソが刺激され、さらに伝統に逆らうような力を持つ絵を描いたのだった。1932年、マネの大回顧展でこの絵を見たピカソは、画廊Galerie Simon (パリの8区にあった)用の封筒の裏に、走り書きした。
 「マネの『草上の昼食』を見る時、後に訪れる苦しみ
  のことを思わずにはいられない」。
マネのこの絵はサロンから拒絶され、さんざんな批判をあびることになる。

 ピカソは、マネのモチーフを彼一流のやり方でインプロバイズし、ときに登場人物の数を変え、ときに登場人物を裸にし、彼独自の構造を求めたのだった。その完成品は、やがて版画にもなり、立体的な彫像となってストックホルムの現代美術館(Modern Art Museum)の庭に飾られた。そうやって変転を続けながらも、ピカソの「こだわり」(たとえば、右の男のステッキと後ろにたらした髪)が見られるのが面白かった。

 もう1つやっていたパステル画の展覧会は、もっと面白かった(『神秘ときらめく輝き(Le mystere et l’eclat)』)。19世紀から、パステル素材の発達とともに発展してきたパステル画を時代区分を元に作家ごとに構成したもの。テクニックがどう発達し、それにつれてモチーフもどのように自由になっていくのかが良く分かった。
 どれも上手いと思ったが、その中でも、マネの名人芸は構成も色も群を抜いていた。上手すぎる。

 今回のオルセーは、マネを見直す機会となったようだ。
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2008年04月06日

ダラダラの日曜

 今日、月初めの日曜は美術館がタダの日。しかし、最近は体に疲れがたまっていて、そのせいか元来の物見高い好奇心も、街に観光客をわざわざ観に行くのも……と消極的なのである。

 ともかくも、どこかで何か観てみるか、そういやオランジュリー美術館のモネの絵はまだ拝んでいなかったな、と昼飯のサンドイッチを持って、美術館のあるチュイルリー公園へ。公園のベンチでサンドイッチを喰っていると、美術館とおぼしき建物の周りに長蛇の列。コラあかんわ。

 念のため美術館の入り口の係員に訊くと、「まあ1時間だね、いや45分!」と叩き売りのようなことを言う。ただ、小雨も降り出したし、四月だというのにこの寒さ。あきらめて、別の美術館に行くことにする。そういや、ロダン美術館でカミーユ・クローデル特別展がかかってたな――。

 しかし、行ってみると、クローデル展は15日からであった。チッしょうがねえ、ロダンをまた勉強していくか……、と中へ。ここはこうした日でも空いている穴場のはずだが、けっこう混んでいた。「考える人」は、正面の庭に移動され、周りに柵が立てられて近づけない。

 しかし、いつ見てもすごさに圧倒されるな。ただ比較したかったカミーユ・クローデルの作品は、特別展の前にスペインに行っているということだった。

 その後、ここも空いているはずのプティ・パレの美術館へ。ゴヤ展をやっているはずだが、着いた時にはすでに終わっていた。地下にある中世宗教美術とルネサンス工芸品を見てると、閉館がきて追い出された。

1週間前に夏時間になったので、夜7、8時になっても、空は薄明るい。明るい夕方が長く続くと、なにかウキウキしてくる。おそらくパリジャンたちも同じ気分なのだろう。夜になっても人出が絶えなかった。トワイライトの中、建物の周りに、白とピンクの桜がちらほらと咲き始めていた。
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2008年03月12日

ルーブル・ツアー『死者の書』

 ルーブル美術館で英語のガイドツアーに参加した。今回は、エジプトからメソポタミアにかけてのお棺などの葬儀関連物(なんて企画だ!)。

 ツアーの中に、エジプトで見つかった、パピルスに書かれたいわゆる『死者の書』があった。これがおもしろかった。ガイドが、大きな動物のような人物が天秤棒を前にした図を説明した。これはいわば「最後の裁判」の図で、人生を終えた死者が、頭に真実の羽根を付けた神(?)に「さあ、アナタの順番よ」とでもいうように背中を押し出されるその前に、アヌビス神が、その死者の魂と真実の羽根を秤にかけ、オシリスの治める死後の国へ行けるかどうかを判定する。天秤にほんとに小さな魂が描かれている。実際に見るのは初めてだった。

 客が、こうしたフランスが持ち出したエジプトの“遺品”を、エジプトは返還しろといわないのか、という意地悪な質問をした。その応え。かつて、あるフランス人のエジプト考古学者がエジプト人たちの中心になって発掘を手伝い、「イギリスが別の『死者の書』を国外に持ち出そうとした時も、彼はそれを阻止しようとエジプト人と一緒になって尽力した。彼への信頼は、その死後、彼の遺体がカイロのエジプト考古学博物館の前に埋められたことでも分るのです。だからここにあるものは大丈夫なのです」。彼の名は、オギュスト・マリエット(Auguste-Ferdinand-François Mariette)。

 話はだいたい合っているようだが、帰って調べて見ると、厳密にはちと違うようだ。フランス人のお国自慢は、何十パーセントか割り引いて聞かないとイケないようだ。
(たとえば、ウィキペディア(Wikipedia)がどのくらい信頼できるか分らないが、そこには、
「パリで収集品の整理を終えた後マリエットは1857年に再びエジプトに赴く。・・・エジプト支配層からの信頼も篤かったマリエットは、再び発掘活動を推進、最盛期には3,000人の作業員を使い、アスワンから地中海沿岸まで延べ35か所の発掘地点で作業を行ったという。マリエットはこの頃からは発掘品をエジプト外に持ち出すことに否定的な考えを持つようになる。」
とある。
ちなみに、このマリエットが、後に発掘作業中に発見した一組の男女の遺体にインスピレーションを得て書いたストーリーに基づいて、オペラ『アイーダ』ができたという説がある。)

 エジプトやメソポタミアの埋葬品のあいだを歩いている時、隣にいたアメリカ人に、「こういう非常に古いものを、アメリカのキリスト者たちはどのように説明するのですか」と訊いたら、「天地創造は、キリスト降臨のはるか昔にあったとするのです。だから問題ありませんよ」と応えた。でも、質問は、時間的な問題だけでなく、「こういう諸々のものを、キリスト教は、どう整合的に説明できるのか」という意味だったんだがなあ。こういう人、アメリカによくいるんだよな。
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2007年12月21日

パバロッティ主演『ラ・ボエーム』

 夜、テレビのArteチャンネルで、パバロッティ主演のオペラ『ラ・ボエーム』を放映していた。もちろん、つい数ヶ月前に亡くなったパバロッティの追悼のためである。

 サンフランシスコ・オペラでの公演。ティツィアーノ・セヴェリーノ指揮。演出は、フランチェスカ・ザンベッロ。相手のミミ役にミレッラ・フレーニという豪華キャスト。1989年の公演というから、二人とも脂の乗りきった時期であったろう。

 パバロッティは、もちろん上手い。しかし、ミレッラ・フレーニは、口を開くと瞬時に空気が変わるかと思われるほど素晴らしい声だ。やはりこの名ソプラノもただならぬ何かを持っている、と思わせられる。

 この話、貧乏な若者たちの単なる恋物語である。だが、プッチーニの曲は、いつ何度聴いても、軽快さ、あまやかさ、官能のくすぐったさ、劇的展開と変調などなどが織り合わさって、実にうまくできていると思ってしまう。
 
 歳をとって、最近は、どうも涙腺がゆるくなった。くわえて、この素晴らしい歌い手たち。一人でテレビの前で観ていたのだが、涙がボロボロ出てしまった。昔の辛い時の思い出が……、いやいや、たんに甘っちょろく感傷的になっただけだよ。

 第1幕の舞台の背景は、ノートルダム寺院を裏から見た風景だった。そういえば、これはパリでの出来事だった。第2幕目は、舞台がカルチエ・ラタンになる。いまこうしてこの歴史的文化的舞台の目と鼻の先に住んでいる幸運を思わざるにいられない。同時に、もっと若い頃にここにいれば――、とも思ってしまう。
 (そういえば、第2幕の話は「カフェ・モミュス」のすぐ外で展開されるのだが、このカフェはまだあるのかしらん。このカフェは実在したらしく、Thomas Boys という人がちゃんとスケッチを残しているんだそうだ。)

 テレビの舞台では、マルチェッロ(ジーノ・キリコ)も声が良かった。また、最終幕で、ミミが病死する場面、ミレッラ・フレーニの熱演は、狂乱という雰囲気さえもかもし出していた。ミミは、か細いが力強い声で歌う。
 
  わたしの暗い屋根裏部屋からは、
  春の太陽を、最初に見ることができる……
  大海より大きくて深い大事なこと――
  それは、心からのあなたへの愛……
  ……私の名はミミ
  
 美しい恋におちるのは、人生でできる最高のことかもしれない。

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 最後に、パバロッティが亡くなった時、ル・モンド紙の追悼記事についていたビデオ(YouTube)を挙げておく。そのときブログを書いて挙げようとしたが、時間がなくて果たせなった。最初は、1984年版の『アイーダ』、その次の『ラ・ボエーム』についての話の最初では、なんとパバロッティが父親と教会で一緒に歌っている。父親もかなりいい声だが、非常にシャイで人前で歌えなかったんだそうな……。





すばらしいお父さんのようなので、もう一つ(完全に自己満足)。
Luciano e Fernando Pavarotti in "Panis Angelicus"
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2007年11月20日

ストの中のオペラ(改)

 実は、先週の土曜日にオペラに行った。パリでも大変な人気の『トスカ』で、チケットを手に入れるのは容易ではない。半年以上も前に苦労して、チケット発売と同時に手に入れたのだ(だから、先日、11月のアタマに、日本からの知人が簡単にチケットが買えたのは信じられなかった)。

 さて当日、楽しみにしてバスティーユ広場わきのオペラ座に入ると、入り口で、男性が「今日は、装飾なしです(sans decoration, OK?)」と言った。「ん?」と思ったら、身なり正しい女性が近づいてきて、紙一枚を示しながら、申しわけなさそうな表情で、「すみませんが、今日はストで舞台がついていません」と言う。

 「舞台」がないというは、正確にいうと、舞台芸術の者たちがストで、歌い手もオケもいてオペラはやることはやるが、今回は何もないステージの上で歌うだけだということである。実は、これ、気になっていたので前の晩にオペラ座のサイトをチェックし、知っていた。で、驚きはしなかった。サイトを見たときは、もちろん驚いたが、逆に、こんな貴重な経験も2度とあるまい、と思ったから、かえって興味津々であった。

 知っていたから、「ええ、そうですか」とだけ言うと、お詫びにオペラのDVDを後ほどくれるという。日をあらためて、売店でチケットの半券と交換してくれるというのだ。フランス人にしては、なかなか粋な計らいではなかろうか。

 会場に入って見ると、ここまで来るのが容易ではないからか、空席が目立つ。ドンチョウの飾りもない。幕は最初から開いていて、黒々とした舞台が見えるばかりだ。

 始まると同時に照明がつくだけである。歌い手は衣装を着ているが、本当になにもない真っ黒な舞台である。しかし、その分、歌手の声だけが勝負であったと思う。歌手たちもそう感じていたのだろう。歌い手の真剣さと誠意と情熱が感じられる、心のこもったすばらしい“舞台”であった。やっとの思いで会場に来た観客たちも、みな同じ気持ちであったようだ。

 とくにソプラノの女性が、群を抜いてよかった。実に美しい、よく通る声で、主人公の女としての愛、やさしさ、もろさ、愛着、苦悩、あせり、怒りといった心理の細かなヒダをていねいに、そしてさらに、舞台芸術がないことを一生懸命に補おうかとするように、伝えようとするのが感じられた。黒い舞台を背景に、物語というツタに咲いた鮮やかな華のようであった。

 舞台芸術がないことで、かえって「人の声の美しさ」を体験できる夕べとなった。一生、記憶に残るオペラであった。
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2007年09月04日

ヴォラール、ロダンの日本趣味

このあいだの日曜日は、月の第一日曜日で美術館がタダの日。

まず、オルセー美術館に。ここでやっている「画商ヴォラール」展が、見たかったのである。画商ヴォラールは、セザンヌ、ゴッホ、ゴーギャン、マチス、ピカソなど、絵画史上に輝く星々を見出したので知られている。

ある日、法学生だったヴォラールは、街角でセザンヌの絵を見て感激する。
「画商になって、こうした美しい絵たちに囲まれて一生を過ごせたら、なんとすばらしいことだろう!」
そして、1895年11月、自分のギャラリーで最初の『セザンヌ展』を企画する。その時から、セザンヌの絵は、多くの若い画家たちを刺激し始める。そして、ヴォラールはそうした画家たちを支援するようになる。

彼が慧眼だったこともあるが、優れた画家たちを輩出した、じつにエキサイティングなの時代(後に「印象派」と呼ばれるようになる)に居合わせたこともあるだろう。だが、ヴォラールがまだ評価の高くない若い画家たちを、勇気(財布の紐を開ける勇気も)を持って支えたことは重要だったろう。

機会を与えられた若者たちは、次々に野心的な絵を制作した。ヴォラールは、彼ら画家に、装飾画やセラミックもあえてさせたりしたという。また、画家たちは、ヴォラールに気に入られるために彼の肖像画を競って描いたという。

10ほどある部屋ごとに画家の絵が分けられ、そんなヴォラールと各画家とのそれぞれエキサイティングな出会いが良くわかるようになっていた。これは、画商が画家に影響をあたえ、絵画の歴史に大きく影響した、稀有な例の一つだと思う。
じつに良い展覧会であった。こんなのがタダで見れるなんて、パリは良いとこや(ゲンキンな)。

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その後、ロダン美術館での『ロダン、日本の夢』という小さな展覧会に行く。
ロダンが集めたり貰ったりした日本の芸術品(主に浮世絵や枕絵)、そして、彼の有名な作品「花子像」のおおくの習作を集めたものである。

これも、面白かった。ロダンのデッサンが、日本の浮世絵や線描の教科書をどのように参考にしているかが見て取れた。人間の体の動きを、一瞬のポーズの中にどう“包み込み”、はらまれた動きをどう表現するか、という点で、日本の浮世絵や線描はかっこうのお手本だったらしい。

見た後、美術館の庭にあるレストランに座る。
ここは、木立に囲まれた、ちょっとしたオアシスである。
そこに、疲れた体を休めて、アホウのようにしばらく座る――。ゴクラクである……。
おっと、ヨダレをたらして寝ていたか……。
しかし、夢には、ヴォラールもロダンも、ましてや枕絵も出てこなかった。

目の前で、鳩が大勢で、地べたのパンをつついていた。

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