2011年08月03日

アゴタ・クリストフ逝く

病児保育にパコは慣れたようだ。朝、仕事前に連れて行くと、さすがに愛想は良くなかったが、昨日面倒見てくれた看護師のおねえさんの膝に、自分から歩いて行って座った。病児保育に行く道々、「昨日パコの相手してくれた、若くて優しくてかわいい看護師さんが、今日も一緒にいてくれるからね」と、話しかけたのも効を奏したか?

トビヒと手足口病を併発していて、他の子に感染するといけないので、原則、長袖長ズボン、そうでないときは、手足の患部をガーゼで覆われる。しかたないとはいえ、可哀そうではある。病児保育園でも食欲がある、というのが救いだ。

帰り道、病児保育に引き取りに行く途中で大雨。駅を降りてから近くの銀行のATMで雨宿りしていたが、止まないので、意を決して向かう。病児保育の部屋に行くと、同室していた6歳くらいの男の子が、電車のおもちゃを畳一面に広げて自慢げである。パコはちょっと迷惑顔。部屋に先に着ていた老人が「お坊ちゃん、帰りましょう」と言った。どんな家庭なのか?

パコを抱えて外に出ると、雨はすでに上がり、虹が出そうな爽やかな空であった。

アゴタ・クリストフが亡くなった。予想しなかったわけではないが、ちょっとショックだった。ああ、大事な作家が死んでゆく。

彼女の文章は飾らず、本質だけを――書かねばならぬものだけを、見出し、伝えようとする。それは、むしろ詩に近いと思う。しかし、それにしても、最近は、ただ言いたいことを“語る”だけの「詩」がいかに多いことか。俳句も短歌も同じ傾向のように思える。TVでの短歌俳句ブームも拍車をかけているか?

アゴタ・クリストフの『二人の証拠』を引っ張り出して読み始めた。この本、原題は『La Preuve(証拠)』である。こういう翻訳上の変更は好きではない。訳すのが難しい慣用句でもない。翻訳者の解釈が入っているのだろうが、解釈というものはいくらでもありうるだろう。だとしたら、原作者の意を尊重して中立的にそのままで訳すべきだと思う。その含意・言外の含みは、読めばわかることだ。
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2010年12月02日

記者クラブと『ジャーナリズム崩壊』

 上杉隆『ジャーナリズム崩壊』が実におもしろい。筆者は最近「機密費」で論陣を張っている人。
 日本の例の悪の権化「記者クラブ」がメインテーマで、それは多くの人が口を閉ざしてきているだけに、胸がすく思い。

 しかし、それだけでなく、日本とアメリカのメディアの違い、日本の横並び新聞社の体質、NHKの(根深い)不遜体質(しっかしヒドイね、この殿様体質は)など、読ませるものも多いのだ。これまで思っていたこと、日本社会で暗に感じていたことを事例で示してくれる。

 たしかに、書かれている内容は、アメリカにいて新聞を読んでいればだれでも気づく常識的なことも多い(New York Timesの新聞の記事の書き方とか、「政治的中立」を標榜するのではなく進んで支持政党を謳う姿勢、とか)。が、それを日本のメディアの悪弊とつなげて論じることには意味がある。

 特に読ませるのは、やはり「記者クラブ」。日本社会の閉鎖性さえも象徴的に表している。

 奇妙キテレツ、時代錯誤、コッケイ、幼稚独善、唯我独尊、世界で取り残されたガラパゴス、言語道断……ありとあらゆる情けない形容詞が当てはまるこの組織をつまびらかにしてくれるのは痛快でさえある。特に、アメリカで外国メディアとして行う「大統領・独占インタビュー」を嬉々として報じる癖に、日本では、記者クラブが海外特派員の独占インタビューは許さない、という身勝手さは、強く糾弾されてしかるべきである。記者クラブが自己弁護に使う奇妙で幼稚な論理も。

 数か月前だったか、TVで「記者クラブ」についてもテーマになったシンポジウムみたいなのを観ていた時、シンポの冒頭に、突然、読売の記者が、何か意見を述べ立てて、最後に「記者クラブについてはこれで終わりにすべきだ」と言って、司会も含めて、それに賛成するみたいなコドモダマシをやっていたが、――あれは正確には何だったかな。ちゃんと書きとめておかねばいかんね。

 と思いながら上杉氏関係のサイトを見ていたら、ありました。読売の記者ではなく、座長だった。
http://diamond.jp/articles/-/1499 
 この日のフォーラムでは、原口一博大臣の発言の後、音好宏構成員、NHK、民放連(TBS、テレビ朝日、石川テレビ放送)、日本新聞協会の順にヒアリング説明が行われるはずだった。その後に出席者からの質疑応答が予定されていた。
 問題は、日本新聞協会の説明の冒頭に発生した。大久保好男新聞協会メディア開発委員会委員長(読売)の発言直前、突如、浜田純一座長がメモを読み上げたのだ。
「日本新聞協会からのメモを代読します。今回のヒアリングにおいて、個別の記者クラブ・記者会見について当新聞協会はコメントしない。記者クラブ・記者会見等についての質疑応答は一切受け付けない。このフォーラムで記者クラブ問題について議論するのは違和感を持たざるを得ない」
 自らの意見を開陳しながら、他者の意見を予め封じこめる。言論機関に身を置きながら、そして報道の自由を謳いながら、なんという厚顔な振る舞いであろうか。
・・・
<丸山構成員、羽石構成員から「記者クラブ問題についてはアジェンダから外してほしい」との趣旨の意見。上杉隆構成員「このフォーラムには国民の権利保障等、とついている。記者クラブ問題を入れないというのは、非記者クラブメディア、通信、フリーは国民に入らないということなのか。>
・・・
騒動後、記者クラブ改革の旗手とも言える原口大臣は、直接的な表現を避けながら、このようなツイートを行った。そのためだろうか、翌日、原口大臣は露骨な嫌がらせを受けはじめる。
これが、先進国と自称する国のメディアなのだ……。反吐が出る。
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2010年08月31日

キンドルかiPadか

先日、日本にやって来たスペイン人の男性が、電子書籍の「キンドル」を持っていた。相方の女性の方もペーパーバックを5冊持参していた。日本中の旅行の真っ最中だというのに、暇を見つけては好きな本を読んでいた。こういうのを、本当に余裕のある「優雅な旅行」というのだろう。

さて、彼らに「キンドル」はいいぞと薦められていた。iPadは、ノートブックや携帯の画面に似たバックライトスクリーンでどこで読める、ただし眼が疲れる。「キンドル」の方は、そうでなく、本と同じで明るいところでないと読めないかわりに眼には優しい。つまり、データ表示が「電子」なだけ。もちろん、いろんな本――だけでなくニュースも、「電子」情報としてとして次から次へとどんどん手に入れることができる。

そこで、いろいろ調べてみた。アメリカでは、むしろ「キンドル」の方が好感を持たれているという記事もある。
New Kindle Leaves Rivals Farther Back
http://www.nytimes.com/2010/08/26/technology/personaltech/26pogue.html?src=me&ref=technology 
これはいい。ただし、日本ではまだ発売されてないんだよね。日本語表記に問題があるのかしらん。
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2008年02月23日

小説『悪人』が大佛次郎賞を受賞

 少々遅い反応になるが、たいへん気に入ったので以前この日記でも取り上げた、吉田修一氏の小説『悪人』が、大佛次郎賞をとったそうだ。
http://book.asahi.com/news/TKY200801290330.html

 こういう地味だが誠実な仕事が評価されるのは、本当にいいことだと思う。その日本語の表現も、考え抜いた言葉を積み重ねているように思う。言葉が本来「コトの葉」を意味したことをあらためて思い出させてくれる。

 それは、いまの日本の出版状況、とくに小説について見る時、重要で価値があることだと思う。ホッとした。
参考:「文化を越えた新聞小説」
http://dokugo.seesaa.net/article/28965668.html
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2007年01月02日

年の初めに美しい日本語に出会う

公告: あいかわらず2ヶ月遅れの更新であるが、いまの体力では、1ページを書くのがやっとである。ご了承願いたい。   
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 日本にいるあいだに、何冊かの和書を読む機会があった。 
  
 まず、M.F.K. フィッシャー著『ブルゴーニュの食卓から』という、土地の料理探求もの。有名な著書らしいが、正直いってその翻訳に辟易した。最初、サッと読んでなぜ判りにくいか理解できなかったが、読み進むごとに、気が付いた。助詞「てにをは」がちょっとおかしいのである。いちいちあげつらわないが、動詞の目的語に使う助詞が、特に変であるようだ。 
  
 翻訳評論家・別宮貞徳の批判――「外国語(英語や仏語)ができればそれで翻訳ができると思うのは大間違いである。『翻訳くらい』でなく、『翻訳なんて』(恐れ多い)と思わなければ」という一節が頭に浮かんだ。 
  
 もう一冊、たまたま手にした、岸田今日子の『大人にしてあげた小さなお話』は、それに比べて雲泥の差があるほど素晴らしかった。この人の才女ぶりは聞いてはいたが、これほどの文才であるとは。ストーリーの斬新さ、おもしろさ、簡潔さはいうに及ばず、日本語がきれいなのである。各ページの表現ひとつひとつが良く考え抜かれ、慎重に選ばれ、練られているのが、手に取るように感じられるのであった。その日本語に触れるだけで、気持ちのいいシャワーを全身に浴びるようであった。 
  
 (自分も含めて)最近の日本語の無責任さを目にするにつけ、つい先ごろ亡くなったこの“才人”の希少さ、有難さを痛いほど感じる歳の初めとなった
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2006年10月11日

文化を越えた新聞小説

 時間があれば、日本人会に行って、朝日新聞を読みたいと思っていた。連載小説が気になっているのだ。それで夕方、時間を見つけて行った。小一時間だけだったが、幾編かを読むことができた。

現在、朝日新聞に連載されているのは、朝刊が『メタボラ』、夕刊が吉田修一氏の『悪人』である。最初は、『メタボラ』の方を、有名な気鋭の女流作家の連載が始まったということで、期待して読み始めた。しかし、話の展開の不自然さ、社会分析の説教くささ、人物描写のあまりの単純さなどに不満を感じ始めた。

 一方、直後に始まった『悪人』の方は、作家の細部を描く筆力、とくに心理の細部を解きほぐす描写力は読みごたえがあった。毎回(特殊な状況におかれた)登場人物の心理を読み解くコトバを探し出していくような丁寧さに、好感を持っている。「あらかじめ決まっている悪人」を月並みな視点で描くのではなく、この事件の「悪人」とは本当には誰なのか、どんな人間が悪人になるのか、いや、どんな状況のとき人は「悪」を行ってしまうのかを説くストーリーを、この作家は探し出しているように見える。

 『メタボラ』の方は、もうあまり付き合う気もなくなってきたが、『悪人』は、オレが海を越え、文化の違う国に来ても、気になる小説になってきたのである。それは、『悪人』の追求するところが、文化を越えた人間に普遍的なテーマだからかもしれない。
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2006年05月09日

『ダ・ヴィンチ・コード』

寝不足気味である。

理由は、寝る前に読んでいるある本が面白くて、ついつい遅くまで起きてしまうためだ。寝る前に一節かそこらだけ読むことにしているのだが、つい次のページをめくってしまい気がつけば夜更かしをしている。

その本とは、『ダ・ヴィンチ・コード』(ダン・ブラウン著)。

おれは、ふだんは、ベストセラーというものを決して読まないことにしている(アメリカ国内で約700万部の売り上げを記録したとは聞いてはいた)。小説というものを読むのが下手ということもある。しかも、根っからが流行というのが嫌いなヘソ曲がりだということもあるが、そもそも「大勢が大挙して同じことをする」ということに食指が動かないたちなのだ。

で、友人のMさんが御親切にもかして下さったのに、つい最近までこのブ厚い本を開けてみなかった。いや、開けては見たが、あまりの忙しさで何度か挫折していた。寝る前なら、何ページかは読めるだろうと始めたのだった。

しかし、この本は面白い。世界で42カ国語に翻訳され、2000万部以上の売り上げを記録しただけのことはある。訪れたルーブルの部屋部屋が思い起こされ、さらに興味をかき立てられる。

それにしても、この翻訳をおかし下さったMさん、いつまでもお借りしていて、ほんとうに申し訳ない。この本に関しては、本を読むのが遅くて・・・というのは、言い訳になりませんでした。
大反省してます。で、もうすぐお返しします……。ごめんなさい。
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2005年10月06日

過去の中のいま・『君が壊れてしまう前に』を読む

マツイとか、イグチとか、まったく、なんですかねえ。NHKや、朝日を含む新聞たちは、もっと公平な報道ができないものでしょうか?!

そりゃね、勝てば官軍ですよ。ヒーローは報じるべきでしょ。でも、どうせ、負けたって、日本人の選手のことしか書かないじゃないですか、大リーグの試合でなにが起こったか、わかりゃしないじゃないですか……。

ここは、ソックス(もちろん赤です)、極東の一小国で、迫害されているわれらのために、一矢を報いてくれ!

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島田雅彦の『君が壊れてしまう前に』(角川文庫版)を読んでいる。

とても良いと思う。中学生の「ぼく」の日記風小説で、一種の「自分をジタバタ探すサガ物語」なのだが、リアリティーと説得力の点で、某人気作家の『スプートニクの恋人』なんかより、はるかにはるかに良いと思う。

なかなか意味深だと思われる箇所を、引用しよう。

気まぐれで強引で性急なぼくのエヴリデイ・ライフには未来への漠然とした期待と不安が交錯していた。ぼくは予測できない出来事との遭遇を待ち望む一方、日常生活の平凡な反復に飽きて、今よりはましだった幼年時代に返りたいとも思っていた。どう転ぶかわからない未来と、今よりは甘く夢見心地だった過去とを、てんびんにかけていた。ぼくは一日に一日ずつ未来に向かって進んでいたが、決して一直線に疾走していたわけではない。十代の少年だって、過去を懐かしむ。面倒な利害関係や義務から解放されてさえいれば、きのうの一目だって遠い昔の甘い憶い出になる。郷愁はジジババだけの特権ではない。(9頁)
まさにその通り、(たぶん)どの大人でもずっと考えていることを突いている。その意味で、これは中学生の日記でも、自分のこととして読めるのだと思う。良く考えられた言葉だと思う。

次の文章に見られるように、日記と過去の違いを分かって書いているように思えるのも、どこかで著者・島田雅彦の覚めた鋭い視線が感じられるゆえんだと思う。この視線のあるなしが、上記の某有名作家とは、違うと思う。
過去は日記のようにめくったり、破いたりできない。日記を燃やしてみたところで、過去は消えやしない。日記を開いたって過去が甦(よみがえ)るわけじゃない。(10頁)(ちなみに、小説中(つまり日記中で)、「ぼくはきょう、その日記帳を庭で燃やした」というくだりが出てくる。)
そして、自分の過去と日記との関係について、次の言葉は、とてもおもしろいと思う。なぜおもしろいかは、もっと自分を知りこの世界について分かる必要があるように思う。
過去は記憶されている限り、再生が利く。忘れてしまったことは人に聞く。天気は気象庁に出向いて調べる。一番肝心なのは、自分の思い違いや認めたくない事実をも受け入れる
勇気。

日記の中では誰もが退屈な毎日を反復している。律義にもー日たりとて飛ばすことなく、
一日に一日ずつ暮らしている。成熟を急いだり、逆に遅らせたりもするが、一気に四つ年
を取ったり、一年に一歳若くなったりはできない。ただ、生きている限り、成熟し、老化
する。でも、自分はいつ、どのように成熟し、老化したかは日記を読んでもわからない。

日記には日々の暮らしが記録されているが、人は蛙と違って二、三日で急に脚が生えたり、
尻尾が消えたりはしない。

 少年期のぼくは中年になった現在の自分を予測することはできなかったが、現在の自分
から数十年前の自分を甦らせることもできない。なのに両者は一日一日の反復をあいだに
挟んでつながっている。確かに一日ずつ過去に遡ってゆくと、そこに数十年前の自分かい
る。そいつがまた、今の自分とは較べものにならないくらいバカで、野蛮だったりする。
当時の日記は手許にないが、ぼくはまだ彼に会いにゆくことができる。むろんタイムマシ
ソは要らない。あいつは確かにぼくだったのだから。(11−12頁)

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2005年08月18日

村上春樹『スプートニクの恋人』――表現探しの旅?

リポビタンのおかげで、今日は、少しはまともに動けるかと思ったが、甘かった。外に出たら、この暑さで、すっかっり参ってしまった。
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村上春樹『スプートニクの恋人』(講談社文庫)を読んだ。

かつて、『ノルウェイの森』を読んで、底なし沼的に失望して以来、村上春樹の本は2度と読もうとも思わなかったのだが、アメリカ人の友人(複数)が読んでおもしろかったというので、重い腰を上げたのだ。アメリカにいた時、アメリカ人の「日本通」がほとんど例外なく、「ムラカミハルキ」の名を口にするのを、ウザったく思ってもいたのである。

しかし、読む間じゅう、苦痛で仕方がなかった。どうも、ぼくには向いていないらしい。思わせぶりでカッコつけ、アンチョコで、不自然な「ための表現」が多すぎるように思うのだ。

まず気になるのは、不自然な「比喩的表現」。たとえば、55ページで、すみれとミュウが食事をしていて、すみれがミュウが体形のため食事に気をつけていると思う場面。
(ミュウは)ダイエットの必要があるとも思えない。しかしおそらく彼女は、今自分が手にしているものを寸分の妥協もなく護りきろうとしているのだろう。峠の砦(とりで)にこもったスパルタ人みたいに。
なんだよ、それ。
そもそも、スパルタ人は、峠の砦なんぞにこもるのか?

作者本人(村上春樹)は、イキな喩えのつもりなのだろうけど、どうにもこちらにその「イキさ」かげんが伝わりにくく、つまるところ独善に落ちてるような気がする。

無理に一夜漬けのような「教養的知識」も、気になる、いや耳障りである。あちこちに散りばめられた西洋の作家名やクラシック音楽のタイトルや作曲家名。どれも、『一週間で分かる有名クラシック音楽』や『現代ピアニスト20選』みたいな本に書いてありそうな、お決まりの名前やタイトルなのは、どういう意図があるのでしょうか、村上さま。

たとえば、33ページで、すみれとミュウの音楽の好みを説明する場面で、「ウラジミル・ホロヴィッツのモノラル録音時代のショパンは・・・」で始まり、「フリードリヒ・グルダの弾くドビュッシーの前奏曲集は・・・」「ギーゼキングの演奏する・・・」「リヒテルのプロコフィエフ演奏は・・・」「ランドフスカヤの弾くモーツァルトのピアノ・ソナタは・・・どうして過小評価されるのだろう。」と、短い段落一杯に有名人音楽家の名前を散りばめて、まじめに説明してるところなど、滑稽でおもわず苦笑しつつも、そのわざとらしさにウンザリしてしまった。

すみれがローマでコンサートに行けば、シノーポリの指揮、マルタ・アルゲリッチのピアノでリストのコンチェルトという有名どころの「定番」で、これも、ああ作者はちょっと勉強したんだろうけどなあ、いや、すみれの<にわかじこみのクラシック熱>を表現したかったのかもしれんなあ、けど、それよりは、これだけで<そんなものが表現できると思っている作者の甘さ>が露呈してるよなあ、なんて意地悪い気持ちになってしまう。

こんなアンチョコのが広く受け入れられているのは、歴史的に日本に「教養小説」なるものがしっかりと根ざしていないからではないか、などと思えてくる。

そういう作家のインテリ偏重・にわか知識欲みたいなものが、村上のお好きな「イキな喩え」と一緒になると、ちょっとヒサンな表現になる。

主人公の「ぼく」が、密かに恋するすみれに、自分がレズビアンじゃないかと告白されるシーン。
「わたしがろくでもないレズビアンだったとしても、今までどおりお友だちでいてくれる?」
「たとえ君がろくでもないレズビアンになったとしても、それとこれとはまたべつの話だ。君のいないぼくの生活は、『マック・ザ・ナイフ』の入っていない『ベスト・オブ・ボビー・ダーリン』みたいなものだ」(太字、引用者)
セリフの拙さやぎこちなさは、この若い主人公の未熟さというより、作者のものの見方のそれじゃないかと思えてしまうのだ。この主人公は、他の点ではほとんど完璧な男性なのだ。

小説家志望のすみれが、自分の書いた原稿が気に入らず破り捨てる場面。
あるときには絶望にかられて目の前のすべての原稿を破り捨てた。もしそれが冬の夜で部屋に暖炉があれば、プッチーニの『ラ・ボエーム』みたいにかなりの暖がとれたところだが、彼女の一間のアパートにはもちろん暖炉なんてなかった。(太字、引用者)
作者の“あふれる知識”が出てしまうんだろうが、ちょっと、無理があり過ぎないか、これ?

こうした“妙なたとえ”や“ちょっと強引な比喩”があまりに気になって、いったいどのくらいあるのだろうと、最初、付箋紙(ポスト・イット)を付けていったが、あまりにも多くて、なんかバカバカしくなり、途中で放棄したのだった。

人間の描写にも説得力はなく、話の展開に必然性も組み込まれていないと思う。(旅行先での、ギリシアに別荘を持つ紳士との出会い、とか、あまりに、いわゆる“月並みな展開”すぎないだろうか?)

主人公の「ぼく」は、背が高くて、かなりハンサムで、どんな時にも論理的で冷静沈着でクール(すみれがそばにいる時以外)、知識も知識欲もある、という、確固たるいわば“不動の存在”に描かれているのも、話の展開を知らせるナレーターだけの存在としても、喰い足らない。

もっとも説得力があったのは、万引きした生徒を捕まえた、たんなる端役の警備員、というのは皮肉である。

村上春樹のテーマの一つは、日本の近代私小説の流れをくんで、「ぼく」探しなのだそうだが、「表現」探しをやってもらいたいと思ってしまった。
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2005年07月22日

ミラン・クンデラ『可笑しい愛』

ミラン・クンデラ著『可笑しい愛』を読んだ。

クンデラは、『存在の耐えられない軽さ』(1984年)で有名になったチェコの作家。この本は、彼が、もっと初期に主に愛と愛する人々について書いた短編を集めたもの。まずチェコ語で書き、のちにフランス語に訳した。

人々があることを感じ、何かをなすのは、それなりに必然的なつながりがあるものだ。少なくとも当人には!
「○○だから、××と思ったのは仕方がないじゃないか。で、△△を好きになってしまったんだ!」
のように。愛や恋はその典型例でしょうね。

その人々の感じ方(あれこれの心理)と振る舞い(ばかげたものも含めて)に至る“論理”を語る描写が、じつに説得的ですばらしい。ああ、なるほど、そりゃそうだ、と思ってしまう。

しかも、人々の様子や立ち居振る舞いや出来事についての、ディテールの描写がしっかりしている。細かく描けば良いわけではない。細密画のようなマンガは疲れるだけだ。それと同じで、ディテールも一種の様式化がされてなくては、読んでいてついていく気になれないし、興味ももてない。

それに、愛を語る視点がいい。語っている恋愛にこだわりながら距離を置いている、突き放しているようでありながら目が離せないという筆致である。つまり、オトナである。

才能あふれる作家だなあ、と思った。
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2005年06月20日

イスラム教徒女性の「性(セックス)」(上)

アメリカのニューヨークタイムズ紙に、モスリム(イスラム教徒)女性の「性(セックス)」に関する大変興味ある書評が載っている。(「あるモスリム女性 ―― ある性の物語(A Muslim Woman, a Story of Sex)」インターネット版は、
http://www.nytimes.com/2005/06/20/books/20almo.html?adxnnl=1&8hpib=&adxnnlx=1119275283-NcgtCxx+Wg/9zcg6Ma/qOw

北アフリカのイスラム文化圏に生きる女性が、モスリム女性の性をテーマに『アーモンド』という本を書いた。本の表紙には、女性の体が臍だけを除いてアーモンド色の布で覆われている写真が載っている。「アーモンド」とは、北アフリカの女性の肌の色を刺すのかもしれない。また、「アーモンド」とは英語で「ペニス」を表す俗語で、それが意図されたとするとかなり衝撃的だが、この本はフランス語で書かれたから同じような隠された意味を持つかどうかはわからない。

モスリム女性という立場での半自伝的な物語ゆえ、この本は匿名で書かれた。しかし、そのテーマゆえか、すでにフランスでは5万部が売れたそうである。

この本は、モスリム女性の性の「自由」と「不自由」をテーマにしている。「性の不自由」とは、おもに、結婚したモスリム女性が(レイプなどの)夫の性の暴力にさらされることを指す。「性の自由」とは、もちろん、「結婚」という形に囚(とら)われない性愛の形態(ときに、いわゆる「愛の遍歴」)を、まず指すのだろう。

しかし、性の問題とは、(とくに女性にとっては)自分で意識し感じられる「体」の問題でもあるだろう。だから、「性の自由」は、おのれの体の自由、つまり因習や社会的抑圧からの解放をも含んでいるだろう。その意味は、イスラム社会 ―― そこでは、とりわけ性に関して女性は自分の意見を言えない ―― に生きる女性にとっては、とくに重い、というのが、この本のもう一つの重要なテーマである。

書評に引用された、インタビューでの著者の言葉が印象的だ。

「アラブ社会は、壊疽(えそ)や文盲、貧困や独裁や原理主義で疲弊してしまった病気の老人のようです。」

「男女の関係では、イスラム社会では結婚と出産のために一緒になるものの、女性の体のことを知る男がほとんどいないため、たいていの女性はセックスを重荷と感じています。」
(つづく)
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2005年02月27日

It's not safe or swim at your own risk

目の前に江国香織の『泳ぐのに安全でも、適切でもありません』という本があったので、手にとり、表題の短編を読んでみた。

タイトルは、主人公が、かつてアメリカの田舎町を旅行していた時に見た、川べりの看板を思い出すかたちで挿入される言葉から来ている。
It's not safe or suitable to swim.
「遊泳禁止の看板だろうが、・・・泳ぐのに、安全でも適切でもありません。私たちみんなの人生に、立ててほしい看板ではないか」と続く。

どうせなら、アメリカにはもっとあちこちに立っていて、なんでも自己責任に任せられるという思想を反映した、いかにもアメリカ的な
It's not safe or swim at your own risk.
というのを引用してほしかったな。

痛い目にあっても、それはかなりの部分が自己の責任…、日本は、そういう国ではないのかね。
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