2011年01月01日

謹賀新年

パコの手

(遅ればせながら)あけましておめでとうございます。
どうぞよいお年を。
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2010年06月06日

言葉が生まれる時

電車が向かい合わせに停まるプラットホーム。
アゴタ・クリストフの本をかかえた男性が電車を降り立つと、向かいの電車から、金時鐘の詩集を手にした女性が下りてくる。

失くした言葉と、失くした季節。
見い出した言葉と、生まれくる……。

女性は軽い視線を投げて、歩き去る。
男は、その女性の後ろ姿を、いつまでも見つめていた。
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2006年08月12日

判断

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油断でもないのだが……。
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2006年04月27日

文尾

あいも変わらず、ニュースでまで
文の語尾を上げて読んで――
「日本語の破壊」へ向けてプロジェクトXか、NHKよ!
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2006年04月10日

プロ

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グジュグジュ言わない
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2006年04月04日

自己満足?

 先日、卒業した大学を訪れた。そこで、掲示板に「ボランティア募集」の張り紙を見た。それで思い出した。学生の頃、ボランティアのようなことをしていた。ひとに自分がそういうことをしていることを伝えると、「そりゃジコマン(自己満足)のためなんだよな」と、(たいていは酒の場で)説教する先輩や先生がいた。

 しかしよく考えてみると、短期的であれ長期的であれ、自分の満足のために何かをしない人がいるのだろうか。会社で一生懸命働いていい役職に就いたり退職金を多くもらおうとしたりするのも、大学の先生が論文をたくさん書こうと努力するのも、良い服を着たり化粧をしたりして(別に誰かの気を惹くというのではないが)まわりに好印象を与えて自分の身の置く環境を良くしようとするのも、誰かに何かをあげて好意を得たり喜ぶ顔が見たいのも――そのゴールが目の前のものであれ、先のことであれ、とどのつまりは自分のためである。

 それを「自己満足」と呼ぶのが悪ければ、広い意味で「自己愛」だろう(人間が根本的に持つ「自己愛的傾向」については、中島義道著『悪について』が詳しい)。それが悪いといっているのではない。程度の差はあれ、誰でもそれはあるだろう。「自己愛」のワナに絡め取られているのは、他に自己実現の手段がすぐに見つからずボランティアをしてしまう、貧乏な学生だけではない。

 それを、上のような説教ができると思っているのはなぜなのだろう。それを考えながら説教する当の本人の論理的根拠を一枚一枚剥がしていくと、とどのつまりその根拠は、説教をたれている者が年上だったりある職についていたりすることに尽きるのである。

 こういう権威的な論理を振り回す輩が、嫌いである。
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2006年03月10日

自分

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逃避はにんげんにしかできなんだよ、きっと。

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2006年03月01日

一杯の茶

夜、一杯の緑茶を飲む。
おれは、元来、コーヒー党であるが、夜に飲む一杯の緑茶は、癒しの効果があるようだ。

茶の香りをかぎながら、しぜん、自分のことを想うことが多い。最近は、自分の中に巣くう弱さ、もろさ、自分に言いわけばかりしている情けなさ、などを想う。簡単にいうと、ダメなやつなのである。

若いときは、そんな弱さにいら立ち、寺に参禅も考え、実際、禅も組んでみたりはした。なにかにとり憑かれたように武道などの過酷な鍛錬もしてみたこともある。酒を飲むことがその代わりになると甘い考えを抱いたこともある。しかし、“内部に巣くうあれ”はどのようにしていても「乗り越え」られなければならないと感じた時、そういう特殊な訓練は自分にとって興味のないものになったのである。

道を何気なく歩いていても、己の確実さと穏やかさは養えなくてはならないだろう。無意味に複雑すぎるのかもしれない。もちろん、おれのように弱い人間だからこそ、何かのきっかけは必要なのだが。

夜の煎茶がそのきっかけにならないかと、おれは、無意識に願っているのかもしれない。テーブルにただ座っている茶碗の中の茶――その単純さに何かのヒントがあるのかもしれない。
茶碗からは、しずかに湯気が上がっている。
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2006年02月28日

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あの花が。
想いつつ、独り酒。
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2006年02月23日

百人と一人(改)

子どもが百人、いっしょに道を歩いている。そのうちの一人が、けつまずいて転んだとする。

そんな子どもに、とても興味がわく。

とくに、なぜその子だけ転んだのかというようなことに。

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百人の大人がいる。その百人と知り合いだという、もう一人の大人がいる。

その大人は、百人と知り合いだというだけで、いばっている。その百人の組織に属しているからというだけで、いばっている。その百人が権力やお金を持っていると、もっといばるようだ。

こういうヤツが、ヘドが出るほど嫌いだ。

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百人の人間がいる。

言葉も、文化的背景も、考えも、肌の色も違う。お金がある人もない人もいる。小さい人も大きい人もいる。

どの人とも知り合い、その人たちを理解しようとする、そんな人間を尊敬する。そんな人間になりたい。

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いつ死ぬか分からないので、ここに書き留めておきたいと思った。
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2006年02月13日

おもい

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 ああぁ
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2006年02月06日

生きる時間

昨日の話題のイスラエルの番組を観ていて思い出した。

むかし、アメリカで会ったイスラエルからの女性と、その当時、毎日のようにイスラエルで起こっていたテロについて話していた時だ。イスラエルでは、映画館やカフェなど、人の集まるところで自爆テロが頻繁に行われ、犠牲者が多数出ていた。

「そんなに、毎日、爆弾とかで死ぬかもしれないのに、みんなどんな気分で生きてるのだい?」と訊いてみたのだ。

こたえは明瞭だった。
「いつ死ぬか分らないからこそ、陽気に生きるしかないのよ」
彼女は、そう言って、かるく笑った。
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2006年02月02日

つまづき

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2006年01月29日

理性的な人間という意味

 ネット上の荒らし行為などを見ても感じるのだが――ここ日本に住んでいても、アメリカでほどではないが、いわゆる“まったく話が通じない”ブッ飛び野郎がいたりして戦々恐々とすることがある。それが高じて「誰を信じたらいいか」、と感じてしまうこともあるのだが、むしろ、できれば人間の「どんな部分」を信じるか、と考えたい。

 哲学では、人間を「理性的な存在」などと定義することがある。この「理性」と呼ばれるもの、かなりウサン臭い。

 だいたいは(哲学の伝統では)、純粋に感覚的・知覚的な能力ではなく、冷静で論理的な思考によってものごとを理解・解明して把握・判断する能力、またそれに基づいて行為する能力をいうとされる。

 しかし、完全に理性的な人がいるという哲学者がいたら、その人は何も世間のことをご存じない(あるいは知りたいと思わない)幸せ者か、なんの苦労もしたことのないボンボンであろう。オレは、酒をガブガブ飲みながら(確固たる事実に基づかずに)ゴシップを楽しんだりする学者(哲学者)が「理性」などと口にしていたら、信じないことにしている。

 完全に理性的な人を見つける可能性は、蜜柑の木になる金色の実を見つける可能性より低いかもしれない。生物的な衝動さえも持つ人間に、そんな人はいないだろう。しかし、せめて、ほとんどのひとが“理性的な部分”は持つと考えた方が、正しいと思う。人の考え方のどのくらいの割合かは、その人がどんな経験をし、どのような知識や主義を持っているかによるだろうが。

 もちろん、こんなのは、甘い、世間知らずだといわれるだろうな。しかし、たとえば、ある人と会話や協議をしようとして、それが(だいたいは)うまくいくはずだ、少なくとも話は通じるはずだ、と(普通は無意識に近いレベルで)信じているのなら、その人が持つ「理性的な部分」を前提にしている。ことばの論理的な理解は、理性がなければ成り立たないのだから。

 おそらくは(望むらくは)ほとんどの人が持っている、人間のそんな部分にアピールしたい。おそらく、教育や啓蒙の可能性もそこにあるのではないかと思う。
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2006年01月28日

フォント

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2006年01月26日

動ゆえに可能

眼球は常に動いていて、そのために、外界のものが輪郭をもって見えるという。

――動いているからこそ、不動のものが見える。
posted by ろじ at 23:48| Comment(0) | TrackBack(0) | ひと言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月05日

石の心

心が石である人間がいるようだ。石の心を持つヒト――なにを見ても、なにをされても、心の底から感じることはなく、そういう経験で自分が本質的に変わることもないヒト。

そういうヒトは、病気だかなんかで、ある日、そうなってしまったのかもしれない。生まれつきかもしれない。

分っていることは、そういうヒトは、他人がどんな重要なことを言おうと、意見を変えず、他人を傷つけても、心が動かない。

そういうヒトは、もっと柔らかな心(海綿のような?)を持つヒトなどの考えることは、まるで分らない。海綿の心を持つヒトは、石の心のヒトを分ろうとするだろうが、それが大変難しいので、自分の心も石でなくちゃならない、と思い始める。

石の心を持つヒトは、周りをも石にしていくようだ。
posted by ろじ at 20:43| Comment(0) | TrackBack(0) | ひと言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月26日

耳に入らない言葉

ある種の人々の言葉(特に、公演や講義でよくあるのだが)が、まるでこちらの頭に入らないことがある。それは、書いた物を読んでいても起こることがある。

そういう文章をよく見てみると、誰でも言いそうな決まり文句・常套句や、お定まりの言葉の羅列でしかないように感じる。典型的には、政治家の答弁みたいなものだ。

「たいていの人は話していない、引用しているだけだ。・・・そうした言葉は単に上から与えられてきたものであり、成立の瞬間に生まれたものではないからだ」と言ったのは、ドイツの詩人・アフォリズム作家、クリスティアン・モルゲンシュテルンだった(『Stufen(階段)』)。

ふぅむ、そういうことなのだろうな。自分の言葉――生み出された瞬間、発言者(言葉を発する者)によるこの世界の“切り口”を示し出し、発言者とその切り取られた世界とのノッピキならない関係を成立させるような――そういう「自分の言葉」を発する人には、なかなかめぐり合えない。

かくして、ぼくは、今日もアクビをした。
posted by ろじ at 23:34| Comment(0) | TrackBack(0) | ひと言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月29日

な落

しなければならないことが山のようにある時に限って、

テレビ欄を隅から隅まで見たり、
ふだん見もしないテレビを観たり、
茶碗を洗ったり、
衣類を整理したり、
使い忘れていたメルアドを確認し始めたり、
ミミくそほじったり・・・

「奈落(堕落?)の底」にまっさかさま?
せめて、堕落のよく似合う男にりたい。
posted by ろじ at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | ひと言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月06日

内なる暗い面

誰でも、内部には、明るい面ととても暗い面をあわせ持っているものです。
それを、毎日の生活で意識したり生きたりはしませんが、役者としての私は、それを表現することが許されるのです。

KEVIN BACON ケビン・ベーコン
(アメリカのTV番組CBS『60 Minutes』でのインタビュー)
posted by ろじ at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | ひと言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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